第二編 第一次大本事件

 地獄の釜の焦げ起こし

 第三次大本事件は、第一次、第二次事件の延長線上にあるとともに、大本歴史との関連なしには、説明できない。大本はまさに神々の活きる世界であり、奇なる事実の宝庫である。開教いらい今日まで、大本を舞台に常に霊的たたかいが演じつづけられてきた。主に霊的裏面をふくめての大本の歴史を概観してみよう。 『筆先』に「三人世の元」という言葉がある。大本の元は開祖 出口直、聖師出口王仁三郎、その妻 二代出口澄の異質の個性のからみあいで定まった。直は白湯、王仁三郎は茶、澄は水を好んだが、嗜好の相違にまで三人三様。舞扇にたとえれば、直は骨、王仁三郎は華麗な地紙、澄はかなめで、どれ一つ欠けても今日の大本はない。出口直は、天保七(一八三六〉年一二月一六日、福知山(現京都府福知山市)の桐村五郎三郎・そよ・の長女として生まれた。時に天保の大飢饉の最中で家も貧しく、両親が減児(へしご)(赤子の鼻と口を手やぬれ紙でおおい窒息死させる〉するつもりでいたが、祖母の猛反対で助けられたのである。 弘化三(一八四六)年、桐村五郎三郎は四五歳の生涯を終え、祖母たけ、母そよ、兄清兵衛〈一四歳〉、直〈一一歳)、妹りよ〈七歳)の女子供だけが残された。そよの手内職で食えるわけがなく、兄清兵衛、直は口減らしのために奉公に出される。寺小屋に行けず文字などまったく知らぬまま六年がすぎ、一七歳で老祖母、母の元へ戻る。奉公時代の直は主人に誠をつくし、親に孝養をかさねる。働きもので、柔順で、つつましい、けなげな娘であった。それは当時の権力側の求める理想的な民の姿であったろう。安政二(一八五五)年二月三日、直〈二〇歳)は綾部に住む叔母出口ゆりの養女になり、養子婿政五郎(二九歳)と結婚。政五郎は腕の立つ大工棟梁であったが名人かたぎでまるで物欲のない男。一代で三百軒の棟上げをしたといわれながら、うけおっては損ばかり、酒と芝居と冗談が飯より好き、家の暮らしむきなど気にかけぬ。そのうえ悪質な高利の金を貸しつけられて、手もなく裸にされる。 明治五〈一八七二)年には一七年間住みなれた出口家の屡敷を売り払う。直は借家で煮売り屋を開き、また鰻頭を作って小さい子供に行商させる。明治九年、安い家賃の支払いにも困り、わずかに持ちこたえた新宮坪の内の四八坪の土地に、家族で山から木を切りだし、川から石を運んで、二間だけの小さな家を建てる。一一人の子を生み八人が育つが、その子らを口減らしのために次々奉公に出さねばならなかった。末の子の澄は明治一六(一八八三)年二月三日、節分に生まれるが、数え七歳の時から早くも奉公に出される。明治一八年、政五郎は中風にかかり、寝たきりになる。心をきめて直は元手の少ない屑買いになり、わずかな日銭で病人や幼い子らを養う。 貧苦のどん底にあえぐ直に、次々と苦難がのしかかる。明治一九年一〇月半ば、直の長男竹蔵は大工の見習い奉公先で鑿(のみ)で喉を突き首を吊るが、縄が切れて死ねない。血みどろのまま親方に発見されて命をとり止め、出口家にかつぎこまれる。せまい一室に寝たきりの夫と長男が並ぶ。大工としてのカ量も意欲もなく、長男としての重荷にたえかねる竹蔵に直が与えた親心は、「竹蔵、兄弟はたくさんあれど、お前にはやっかいかけんから、よくなりたら働きに行てこい」という、長男としての責任免除であり、家からの解放であった。 傷がなおった竹蔵は蒸発し、一七年間行方不明になる。四歳だった澄はこの事件を記憶しており、晩年「その時に夢のように覚えておるが、籠に乗りて帰りたのをほのかに覚えております。教祖さん(出口直)がこたつにもたれて泣き、『わしはなんという業人であろう、地獄の釜の焦げ起こしじゃなあ』とひとりごというていられたのを、子供心に悲しかりた」『かめおかの巻』と書いている。 「地獄の釜の焦げ起こし」という表現は、苦難にであうおりふし、直のロからもれでた。「地獄の釜焦げ」という俗語は普からあり、「生前に悪事をはたらいた人は焦熱地獄に落ち、釜の中でぐつぐつ煮られ、焦げと化すまで焼かれる 極悪人またはその深い罪業」を意味するが、「地獄の釜の焦げ起し」という言葉はどの辞書にもない。丹波地方の方言でもない。とすると直独特の造語らしい。では「焦げ起こしい」は何か。「わしはなんという業人であろう」との直のつぶやきは、悲観的な嘆きばかりではあるまい。現世での苦難を仏教的民衆意識の悪業の投影として受け入れ耐えぬくことによって、釜焦げの一つ一つを起こし清めていかねばならないという、したたかな意味あいをふくんでいるのではないか。 明治二〇年二月、政五郎の病状は悪化し、末期の酒を妻にねだる。商売道具のはかりを質に、それをはたす直であった。三月一日、直に手厚く見守られて、政五郎は逝く。享年六一歳。 福島久と米の神がかり 出口直の三女久はかぞえ六歳の年からまんじゅうの行商をし、一二歳で奉公にでて母を助けた親孝行な娘であったが、明治二二年八月、京都府船井郡八木町の人力車夫福島寅之助に嫁いだ。翌年八月久は月みちて女児を出産した。何やら異常な気配だ。産婆が去り寅之助がとびだすと、久は赤子の体を確かめる。小指のわきに鬼歯のように生えている六本目の指。久は俎板と出刃包丁を下げて子のそばに戻り、余分の指を切り落とした。もう一本の指を調べると一本足りぬ。いかに気丈な久でも、いたましいこの初産の衝撃ははかり知れないものがあったろう。悲しい宿命を持ったこの女の子はふじと命名された。 出産より二〇日後の八月三一日夜半、それは夢とも現ともつかなかった。久が高い山頂に立って見おろすと下界はまさに世の終りで、餓鬼道地獄にもがく人々が久に向い、大声で救いを求めている。「世界の、これほど大勢の人を一人して助けえというようなことはようせん」と久がいうと、どこからともなく「どうしても助けえ」と声がした。久の手記には、「いっそ、こういうこと(世界の人を救う)に誰一人相談にのってくれる人はなし、これより忍んで出て行って、川にはまりて死んでしまおうと思いまして」とある。 この夜、寅之助はふじを抱いて寝ていた。久は裏口から抜け出し、一町と離れていない大堰川畔の深い淵にとびこんだ。苦しさに水底をけり上げると、水面に顔が浮かび出る。すると空中に現われた四〇がらみ、黒い羽織を着た美しい男神に説諭され、自殺を思いとどまる。帰宅後の様子を久は記す。「…黙りて入りて着物を着かえておりますと、若い時でありますから髪の毛が沢山ありますので、非常に水が沢山ふくんでおりますのを大逆さまになりまして髪の毛をしぼっておりますと、主人の自がさめまして『これ、お前はなにをしておる』と申されますから、『私はなにか知らん死にとうてかないませんから死のうと思うて川へはまりに行きましたら、神さまか知らんが、きれいなお方が、早く帰ね、いま帰んだら内の主も知らぬなれど、ぐずぐずしておりたら皆の者が大騒動いたすから早く帰れといわれましたから、いまここへ帰りましたところであります』と申しましたら、みな家内中が心配をしてくださいまして、さ、それから『産後ののぼせでそんなこといたすのであるから、早く医者を頼みにゆけ』とおのおの手分けをしてくださいまして、医者がきてくださいましたら大変それが荒くなりまして、『わしは医者に診てもらうような病人と違うのざ。先にあること、この肉体に知らして御用に使うのざ』というが早いか、なにも知らぬ罪もないお医者さまの首筋つかんで高塀の外へつかんでほうり出しましたら、『これはどえらい気違いでありますから、医者の手にはあいませんから、神さまにおすがりしてお助けをいただきなさい』というて、腹を立てずに帰られました」『日之出神論』大正七年四月九日 狂乱の久は、急造の座敷牢に閉じこめられた。久が寝ていると、耳もとで不思議な声がする。「…そなたに申しておかねばならぬことがある。そなたは赤ん坊があるから、そなたの肉体はやはり元にしてやるから、そなたが元気になると主人に大変難行がかかるから、ひととおりの働きはいたさなならんから、今ある金は一厘のお金もなくなりて、どうしようもこうしようもならぬとこまで落として、そなた二人の度胸を見るが…そなたはこの世の始まりのことから何一つ知らぬことはないというように神が知らしてやるから、この先では三千世界を開かねばならぬ時節が参るから、そのおりはそなた夫婦が先頭で三千世界を開くお役であるから、よほどしっかり腹帯を締めておらんと、取りそこないをいたしたら、神が困るのでない、その人に困ることができるから、よほど気をつけるがよい」『日之出神論』 久は静かに神の姿を見、神の声に耳を傾けているつもりだが、現実的にはその間も狂乱状態にあったらしい。身内の者や近所の人たちも集まり、癲狂院(てんきょういん)に送る相談をしている。綾部からかけつけた直の必死の看病によっても治まらない。一〇日目、姉の栗山琴が金光教の教会長大橋亀吉を同道して訪ねてきた。大橋は座敷牢の前に座って、病気の取り次ぎを始める。大橋のとなえる天照皇大神、日の大神、月の大神の神名を聞いた久は、それがかねて見た神であったかとびっくりしたとたん、平静に復した。直はその霊験に驚き、剣先(洗米を剣先型の半紙に包んだもの)を綾部に持ちかえって祭った。これが直の金光教との出会いである。 その後も、のしかかる苦難が久を待ち受けていた。「そなたが元になると大変な難行がかかる」の神の予告通り、久の正気と入れ代わりに寅之助がちょうど百日の問、病床に苦しむ。ちびちびと夫婦で稼ぎためた金もたちまち使いはたし、一家は窮乏のどん底におちいる。しかしこの苦しみがかえって福島夫婦を熱烈な信仰へと傾斜させ、八木で初めての金光教の広前を作る機運をかもしていく。直の長女米は小さい頃からよく働き気立てのやさしい娘であったが『明治一O年ごろ侠客の大槻鹿蔵と結婚した。鹿蔵は天保一〇年生まれ、米より一七も年上で母直とは三歳しか違わない。鹿蔵の極道ぶりは並のものではなかった。 野につながれていた生き馬の肉を包了でえぐり取り、なまのまま食べたという話も残っている。何にでもからんで因縁をつけ金をおどしとるので、「因鹿」または「丹波鹿」とあだ名されていた。鹿蔵夫婦は、北西町(現綾部市北西町)で綾部最初の牛肉店「今盛屋」を開き、繁盛した。おちぶれる一方の出口家に比して大機家は急速にのし上がり、「今や綾部一の金持は今盛屋じゃろ」と噂されるぐらいになっていた。鹿蔵との生活が長くなるにつれ米の性格が変わっていき、なぜか母に激しい反発を抱くようになる。たまに出口家にくると、米は自ぼしい物を持ち出し、何もない時には怒って商品の饅頭をつぶしたという。 異常としかいいようのない母への憎悪だ。直は「お米もうちにいた頃はおだやかな良い子であったが、鹿蔵の所へ行ってからは手荒い子になってしもうた」と嘆く。また「鬼と狐がよう心が合うて商売しよるわや」と怒りをこめていったという。幼い澄にまで、直はよくいい聞かせた。「親の首に縄をかけるというのは、あれのことじゃ。お前は大きゅうなっても、あれの真似をすることはならぬ」  澄は何のことやら分からぬままにうなずく。これが開教以前の直、米母娘の葛藤であり、のちに澄はこれを「霊魂の因縁」として受け取っている。 明治二五年一月二七日(旧一二月二八日)、旧正月も間近というこの日、大槻家で暮の餅つきがおこなわれた。子分衆や近所の人たちまで集まって餅つきの最中、水取りをしていた米が突然逆上、店の大火鉢をひっくり返す、皿や鉢などを投げとばしてわめき始めた。か弱いはずの米の腕力は狂乱時の久のように超人的でさえあった。取り押えようとする男たちを左右にはね飛ばし、けころがす。出口澄は、長姉米狂乱の有様を幼い自でとらえている。「米の神がかりはとてもとても荒うございまして、手にも足にも及びませぬ。親類近所総がかりでございます。とうてい手に合わぬので、しまいは白木綿をもって体を柱にくくりつけてありました。酒桶に伏せたりありとあらゆることをして、大勢の男がかかりておりました。私、忘れませぬが、行きましたら髪をさばき、お歯黒をつけて黒塗りの下駄をはき、蛇の自の傘をさして、座敷の上を大変なる勢いで『三七歳の辰の年の女、病気全快なさしめ給え。南無妙見大菩薩、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』と申して、座敷の上をどんどん走り回っています。あの恐ろしさは忘れることはできません」『出口澄の上申書』 鹿蔵は米を連れて加持祈祷してもらったり、お稲荷さんへ二週間もいっしょにこもったりしたが、出費がかさむばかりで少しの効果もない。こんな状態なので店をあけても客が寄りつかず、やむなく家財道具の売り食いを始めねばならなかった。 三千世界の立替え立直し 明治二五(一八九二)年一月三〇日は旧正月の元旦である。その夜、直は、気高い神に招かれて天界にあそび一条の光を額から吹きこまれる夢を見る。それが前ぶれで同じ夢を夜ごと見続け、神の放つ白金の炎が日ましに腹中に燃えうつり、息吹くのを感じた。 直の最初の発動は、二月初旬、まだ旧正月の鏡餅のあった頃と伝えられる。神床に向って端坐していた直の姿勢がそり身になり上体がゆるやかに震動、膝が交互に上下する。腹の底から玉のような熱いかたまりがこみ上げ、胸を通り、喉元まで浮揚する。歯をくいしばってこらえるのを、内からこじあけて唇が開き、おたけびが吹き上がる。それは末女澄の表現を借りれば、「お大将」のような声であった。「この方は艮の金神であるぞよ。これより直の肉体を御用に使うぞよ」  たしかにその声は直の口から出た。だが直の意志でもなく、声でもない。つつしみ深い直がわれを忘れて抗議する。「やめてくだされ。退いておくれなはれ。そのように大きな声を出されては…」 だが腹中の神はかまわず叫びつづける。一つののどを男声の神とやさしい女声の直自身が使いわける。外見上は自問自答に見えても、直の意識のほかの途方もない言葉ばかりである。直は裏庭の井戸端に走り、頭から水を浴びた。何杯も何杯も。この夜のうちに水行は七度。いてつく井戸端には、氷が七層をなす。 八度目に「直よ、もうよいぞよ」と神の制止があったがかまわず浴びると、水は頭上で四散し、身に一滴もかからなかった。いったい良の金神は、直の口を借りて、何を主張したいのか。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅でひらいて松でおさめる神国の世になりたぞよ。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。いまは強いものがちの、悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世に、なりておるぞよ。これでは世はたちてゆかんから、神が表にあらわれて三千世界の立替え立直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世は、さっぱり新つにいたしてしまうぞよ。三千世界の大せんたく、大そうじをいたして、天下太平に世をおさめて、万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ。これが違うたら神はこの世におらんぞよ。いずれの教会も先ばしり、とどめに艮の金神があらわれて、世の立替えをいたすぞよ。世の立替えのあるということは、どの神柱にもわかりておれど、どうしたら出来るということは、わかりておらんぞよ。 九分九厘までは知らしてあるが、もう一りんの肝心のことは、わかりておらんぞよ。かみとなれば、すみずみまでも気をつけるがかみの役。かみばかりよくてもゆけぬ、かみしもそろわねば世はおさまらんぞよ。不公平(むちゃ)ではおさまらん、かみしもそろえて人民を安心させて、末代つぶれぬ神間の世にいたすぞよ。あしもとから鳥がたつぞよ」明治二五年 三千世界とはこの現実界ばかりではなく、神界、幽界をも含めた大宇宙。その大掃除大洗濯だ。その用意をせいと神はせかす。かつてこれほどの大宣言が、神の名によって発せられたことがあるだろうか。この艮の金神とは何ものか。「あんなものが、こんなものになりたと、世界の人民に改心いたさせる仕組であるから、ちと大もうであれども、成就いたさして、天地の大神へおん自にかけるから、艮の金神は唐天竺までも鼻がとどくぞよ」(明治三二年間七月一日) 「この神は、小さいことはきらいな神であるぞよ。大きなことをいたすぞよ。月日大神さまのおんさしずで、三千世界を自由にいたすぞよ」(明治二七年)「艮の金神があらわれると須弥仙山(しゅみせんざん)に腰をかけ、青雲笠で耳がかくれんというような、大きな経綸がしてあるから、人民では見当がとれんのはもっともであるぞよ」〈明治三七年旧三月三日)「だんごにいたそうと、餅にいたそうと、四角にいたそうと、三角にいたそうと、世界を自由にいたす神であるぞよ。どんなカも出る神であるぞよ」〈明治二九年旧二月一五日) 出口直にかかって大言壮語を吐くのは、こともあろうに人の忌み嫌う艮の鬼門の金神なのだ。艮とは古く中国から日本に入った陰陽道の言葉だ。艮は丑・寅、すなわち東北の方位をさす。東北は陰の気のきわまり集まる百鬼出入の鬼門とよぶ。反対に坤すなわち西南の方位が裏鬼門だ。鬼門、裏鬼門は方位家相の問題の中で、古来よりはなはだ恐れられている。だから艮の金神といえば、方位家相にこる当時の人たちは震えあがった。直の当惑はいうまでもない。だが艮の金神は強引であった。金神の生宮たるにふさわしく、直の肉体の改造に着手する。一三日間の絶食と七五日間の寝ずの水行だ。この行は、五七歳の老躯にとってどんなにむごいものか。しかし直はすべての試練に耐えぬき、身にいささかの衰えもみせなかった。 明治二六年、綾部では正月から火事がつづいた。いづれも不審火で放火の嫌疑は濃厚なのだが犯人があがらない。材木商の森家が全焼したのは四月一九日の夜半である。そのころ、直は発動すると激しく欝告する。「今のうちに改心をいたさねば、どこに飛び火がいたそうかも知れんぞよ。あまり改心いたさぬと、千田町の森殿がよいみせしめじゃ。改心改心と神が一点ばりに知らすなれど、まだ敵とうてくる者はかわいそうなものじゃ」 警察は早速この情報にとびつく。四月二一日夜は署長の取調べを受けた後、新庁舎の留置場に入れられる。夜っぴて直の発動はつづいた。警察が直の処置に困っているとき真犯人が逮捕され、一連の犯行を自白した。 直は無罪放免だが、狂人では保護者がいる。署長は大槻鹿蔵を呼び、直の監視を命じる。そこで出口家の屋敷の艮の隅におよそ一坪余の急造の牢を用意し、直を閉じこめた。食事は一日一食。毎朝運ばれる粥の弁当だけだ。日墳から食の細い直も、さすがに空腹にたまりかねることがあった。すると神の声がする。「直よ、掌をねぶれ」 いわれるままに掌をねぶると、不思議にひもじさの感覚が遠のき、気力がわいてくるのだった。 座敷牢の暮らしが長びくにつれて、神への不信の念がつのってくる。神命を素直に守れば守るほど町中のさらしものになり、あげくは座敷牢に入れられて「一日暮れるが一年ほどに覚える」思いをさせられる。直は死を決意し、単衣の襟をほどいて首にかければ「直よ、死にたらこの中におるのと同じことであるぞよ。こうしておりてくれねばならんのだ」と神がいう。死をあきらめた直は腹中の神に頼んで、大声でわめかすことだけはやめてもらう。「それでは筆を持てい」と神が命じ、手にふれた古釘を直が持っと、牢の柱に何やら文字のようなものを彫りつける。これが筆先の濫觴だ。五月三〇日夜は鹿蔵の意のまま、最後の砦である家を手放すことを条件に四〇日ぶりに牢を出る。座敷牢を出てからはもう大声で叫び回ることもなく、神意の伝達法は文字に切りかわった。心霊研究上の用語でいう「自動書記」だ。古い信者の田中善吉が直の言葉を書きとめている。 「私は何も知らぬので、どうしたらよいやろうと思うておると、(神が〉『直よ、紙と筆と墨を賢うてくれい。わしが書くから、お前の手を借るだけじゃ。紙一折二銭と筆一本二銭、墨一本三銭…』といわれるゆえ買うてきましたら、『墨をすれ』といわれ、『筆をもて』といわれるゆえ持ちましたら、紙の上にひとりでに字が書けて、私は読めませんから人さまに読んでもらうなれど、誰も『わからん』というてろくに見てくれもせず、読んでくれる人もない。けれどただ腹の中から『直よ、筆先を書けい』と申されるから、わけもわからずに書いておるうちに、ぼつ、ほつわかりかけてきたから・・・・・・」 筆先は明治二六年から直の昇天する大正七年まで二五年間にわたって書きつづけられ、半紙一〇万枚にわたる膨大なものとなる。文字はひらがなと数字ばかり、「五」(ご)、「九」(く)、「九゛」〈ぐ)、「十」の数字もひらがながわりに使われる。また行かえも句読点もないのが特長だ。この筆先に後年、漢字をあて、行をかえ、勾読点をつけて発表したものを『大本神論』という。 たとえば次のようである。筆先「せかい十のことであるからなにほどちえやが九がありてもじんみんではわからんことであるぞよこのし九゛みわかりではならずわからねばならず、わからぬのでかいしんがでけずよのたてかえのまつだいにいちどのし九゛みであるからさっぱりが九やちえをすててしもうてうまれあか五のこころにたちかえらんとけんとうがとれんむつかしいし九゛みであるぞよ」大本神諭 「世界中のことであるから、なにほど知恵や学がありても、人民では分からんことであるぞよ。この経論わかりてはならず、わからねばならず、わからぬので改信(改心、改神)がでけず、世の立替えの、末代にいちどの経綸であるから、さっぱり学や知恵をすててしもうて、うまれ赤子の心にたちかえらんと、見当がとれん、むつかしい経論であるぞよ」 書体は独特だが二五年間活字で印刷したようにかわりなく、文字の特色さえのみこめばすべての筆先が読みこなせる。私たちの自には稚拙としかいいようもない文字も、書家の中には「六朝体に似た一種の風格を備え凡人の筆跡ではない」と賛嘆する者もある。また十万枚の筆先のうち、書き直しの個所が一つも見あたらぬのも特長だ。 筆先の内容は神の経綸、神々の因縁、大本出現の由来と使命、天地の創造、神と人との関係、日本民族の使命と将来など広範にわたり、その中に一本つらぬいている太い筋は立替え立直しの主張である。だが筆先が世人の注目をひいたのは、その内容よりも、むしろ人類に対する予言と警告であった。この年「来年になると、唐と日本のいくさがある。これは日本の勝ちいくさ」と告げて歩くが、唐がどこか、支那がどこか、直にはかいもくわからない。日清戦争が勝利に終ると、「こんどは露国からはじまりて、もう一いくさ。それからは世界の大たたかい、出口の口と手で知らしたこ と、みな出てくるぞよ」と筆先に示す。 また艮の金神は「この方は病気直しの神ではないぞよ。心直しの神であるぞよ。しかし病気も直してやらねば、人がついてこんでのう。直よ、拝んでやれ、おかげはやるぞよ」という。事実、直が拝むと、おかげはめざましかった。 直の優れた霊力に自をつけたのが、金光教である。金光教は岡山県浅口郡金光にある教派神道の一つで、教勢が急速に拡大しつつある最中であった。金光教では布教師奥村定次郎を綾部に派遣、直を利用して広前の設立を意図した。自分の住む家さえ持たぬ直のこと、艮の金神を表に出せさえすればどの教会でもよかった。 明治二七年一一月一二日、新宮(現綾部市新宮町〉の大島景僕宅の裏座敷の六畳を借りて、金光教の神と艮の金神をあわせ祭った。役員信者は、直によって病気を治してもらった人が大半であった。直の徳によって集まる信者は祭ごとにふえ、広前は広い場所を求めて次々と移転する。奥村はその発展を自分の力と錯覚し直を使用人扱いし、筆先もそまつにした。艮の金神は「金光の下になるような神ではない。世界の神じゃ。この神の身上わけい」と迫るが、奥村はかえって直を邪魔にする。明治二八年六月、直はついに愛想つかして綾部を離れ、糸引きの出稼ぎにゆく。 翌年四月、還暦を迎えた直は綾部に戻り裏町(現綾部市若松町)の倉を借りて住み、おりおりに広前に参拝に出かけたが、春の大祭で祭られているのは金光大神のご神体だけであった。 直に懸かる神は告げる。「金光殿のお世話にならいでも、艮の金神一筋で開いてみせる」 直はふたたび糸引きに出る。直がいなくなると誰も広前に寄りつかぬ。維持費に窮したばかりか借金もたまり、五六日目についに奥村は夜逃げする。翌七月二〇日、瓢然と直は綾部に戻ってきた。直がいればおのずと信者は集まる。だが綾部警察署では「金光教の布教師のいない教会は金光教と認められぬから、許可を受けずに人を集めてはならん」ときびしく横槍を入れてくる。そこへ金光教は新たに布教師足立正信を綾部に派遣してきた。 直は、表面的には金光教の看板で広前を維持することに同意する。だが足立もまた直を下女のようにしか扱わぬ。布教にも不熱心で、奥村の時と同様に直との激しい対立がつづく。明治三〇年四月四日、ついに直は金光教と離れて、裏町の梅原伊助の倉に一人で艮の金神を祭った。ここでも人が集まると警察がきびしく干渉するため、ほとんど個人的信仰にとどまり、教団といえものではなかった。直の示す霊験と予言の的中にひかれて直を慕う者はふえていたが、誰一人艮の金神のいう立替え立直しの真意義を理解する者はない。 じれにじれつつ「この神を判ける者は東から現れるぞよ」の神言を頼みに直は「東からくる人」を待ちこがれる。 多情多恨の安閑坊喜楽 明治四 (一八七一)年旧七月一二日、上田喜三郎(後年の出口王仁三郎〉は丹波国曽我部村穴太の小作農 上田吉松、世祢の長男として生まれた。サイコロを振りつづけ一代で上田家の財産〈山林田畑〉を無にした祖父先代吉松は、臨終の床で家族に告げる。「上田家は円山応挙はん(本名上田主水(もんど))の出た血筋で、喜三郎はその七代目。あれは大物になる。上田家に縛りつけずに、大きくなったら養子にやれ」 喜三郎は幼時より祖母字能から独特の教授法で言霊学の手ほどきを受けた。字能は言霊学中興の祖といわれた中村孝道の姪であり、その素養の一端を受け継いでいたのだ。また天賦の霊感少年でもあった。神童、地獄耳などと呼ばれ、大地に耳をつけて地底の水音を探り、たびたび大人に井戸を掘る場所を指示している。「私は七歳の時から神懸かり状態で、突然に体が中空にとび上がったり、人の病気を直したり、人の知らぬことを知ったり、里人から『不思議な子供じゃ、神つきじゃ』とか『神童じゃ』とかいわれたものでありました。私の郷里の老人連中に、お聞きになれば事実がわかります」(神霊界大正八年一月一日号)と王仁三郎はのべるが、反面、口をぽかんとあけていつまでも空行く雲を眺めているので、十文に二文足らぬ「八文喜三」という不名誉な異名もつけられる。 彼の幼い魂は現界のわくを逃れて、どこまで翼を広げていたのだろう。父からは「水呑み百姓の倅に学問などいらん。本読むな、絵かくな、百姓手伝え」と追いたてられこづかれる。 明治一六年、一三歳の喜三郎は小学校担任教師との論争がこじれて紛糾し、あげくに教師はクビ、喜三郎は退学処分。喧嘩両成敗だ。ところが間もなく、クピになった教師の穴うめに代用教員に採用されたのが、なんと当の喜三郎。授業料を払っていた生徒からいちやく月給二円の豆先生に。当持でも異例のことであった。一年余で代用教員をやめ、隣の村役の家に秘書兼下男奉公。翌年、上田家の屋敷内にある久兵衛池(用水池)の所有権をめぐる事件がおζり、一五歳の喜三郎は村全体を相手に戦い、勝利をおさめる。 富者の奢侈りを憎み権力に反抗する気骨は、この時すでに現われていた。青春期はまさに多情多恨、安閑坊喜楽と名乗り文芸活動に熱中。かと思えば、初恋にやぶれて泣いた純情膏年が一転してドン・ファンに。 『穴太じゅうの男以外は全部いてこましたる」と宣言して、赤毛布をかかえ美醜を関わずアタックする。いたずらも遊びも友らの先陣を切れば、勉学にもわれを忘れる。薪や種子を山と積んだ荷車を引いて京都へ運ぶ道すがらも本を読む。読みつつ引く事の端で店先の商品をひっかけこわし、弁償させられたこともしばしばだ。 明治二六年、園部(現京都府船井郡園部町)に移り牧場で働きつつ獣医学を研究、また国学を学ぶ。ラムネの製造販売に手を出して損をする。一獲千金をねらったマンガン鉱探しもくたびれ儲け。貧農の長男としてからみつく束縛を逃れ、生きる術を得ようともがくが次々と失敗、重なる失恋、村人からは嘲笑のまとになる。 明治二九年、正月穴太で精乳館を発足、牛を飼い、牛乳を配達する。ようやく事業は順調にすべり出した。翌年七月父吉松が死去。弟由松がばくちの金に乳牛を売りとばしたことから賭場にふみこみ、やくざと激突する。父をなくした自棄も手伝い、人生の矛盾に悩む喜三郎は、強きをくじき弱きを助ける侠客を志す。 過去、現在、未来を霊界で見聞 明治三一年二月二八日夜、村の青年たちで浄瑠璃の温習会が開かれた。二八歳の上田喜三郎、「太閤記十段目」のさわりを語りかけた時、やにわに五人の暴漢が舞台にかけ上がり、喜三郎をひっさらって場外へ走り去る。やがて近くの桑畑から友人たちに助け出されたものの翌日は商売の乳しぼりも牛乳配達も休み、割木でなぐられ袋だたきにされた全身の痛みに呻吟する。昨年冬からすでに八回、弱きを助け強きをくじきそこねては半殺しの自にあい、今度で九度目だった。見かねた祖母宇能(八五歳)は、傷つき血迷う喜三郎の枕元で、こんこんと意見する。 このおりの宇能の言葉は喜三郎を打ちのめす。喜三郎が深く異次元の世界に入りこむのは、この三月一日〈旧二月九日〉夜が境になるのだ。  錯乱の末、一人迎えた放心の夜である。自分の名を呼ぶ声にはっと我に返ると、見知らぬ一人の男が立っている。男は富士浅間神社の祭神、木の花咲耶姫の神使松岡芙蓉仙人と名乗る。松岡神使は、「これからお前を富士山頂に連れて行く」と告げ、勇んで書置きをしたため終った喜三郎の魂を抱いて天かける。恍惚の時がたちふと気がつくと、喜三郎の身は半里の先、高熊山の岩窟に坐していた。この時より一週間にわたって荒行はつづく。むろん喜三郎の意志でなく、神がしかけ、導き、強制的にさせたものであった。それは二時間の現界修行ののち一時間の霊界修行という比率でくり返された。 霊界修行は脱魂、つまり幽体離脱して、富士山、皆神山などの霊山のほか、あらゆる霊界を見聞することだ。現界修行は凍てつく寒中、じゅばん一枚で水一滴飲まず、何も口にせず岩の上に無一言で静座する。だが二時間の現界修行よりも一時間の霊界修行の方が遥かに苦しかったという。「(高熊山修行によって)過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知しうるとともに、現界の出来事などは、数百年、数千年の後まで知悉しえられたのである。しかしながらすべていっさい神秘に属し、今日これを詳細に発表できないのを遺憾とする」『物語』一巻一章「霊山修業」 行方をたって一週間目の三月七日、問題の男喜三郎は生家に戻ってきた。つめかけた村人や家族の質問には「神さまに連れられて修行に行ってきた」と答えたまま後は無言で麦飯かきこみ、ぶっ倒れるように破れ畳に眠る。 翌日午後二時頃に目ざめ、産土の小幡神社へまいる。その足で山伝いに父の墓へ行き、根引きの松を供える。九日朝、彼の肉体は床に寝たまま四肢から硬直をはじめ、口も舌もこわばってピクとも身動きできぬ。だが聴覚だけは健在だ。その間にも喜三郎の精霊は離脱し、霊界を見聞する。またときどきは現界に戻り、肉体のまわりの騒ぎを聞く。これもまた神からさせられた床縛りの行である。 はじめは修行の疲れからぐっすり寝こんでいるぐらいに思っていた家族も、四日目にはあわてて医者を呼ぶ。医者は「たいへんな痙攣で、この硬直状態が今夜の十二時ごろまでつづくと命はない。体音があるから死んだのではなくて、いわば仮死状態だ。とにかく不思議な病気だ」と首をかしげる。「医者がだめなら神仏の力で」と、天理教の先生が二人の弟子を連れて祈祷にくる。法華教信者のばあさんがお題目を唱えながら数珠で体を打つ、こする。京都からきた祈祷僧には妙見山の狐が憑依して奇妙な託宣をはじめる。何をやっても効果がないから、親戚の男が「ドブ狸がついている」と主張し、喜三郎の体からいぶし出そうという。火鉢に火をおとし、唐がらしと青松葉をくすべだす。生命の危機を感じた喜三郎、なんとか起き上がろうとするが動けない。 団扇で煙を鼻の先に扇ぎ込もうとする男の手を母が泣きながら払いのけた瞬間、上の方から一筋の金色の網が下がってきて手早く握りしめたと思うと、喜三郎の体は自由になる。七日目の三月一五日のことだ。 一度死んで生きかえる、すなわちニア・デス〈近似死体験)を一週間にわたって多くの人たちが目撃するのだから、きわめて珍しい例である。王仁三郎は「私は五、六度死んだことがあるが、生き返ってから後も二週間ぐらいはひどく疲れたものである」『月鏡』「有りがたき現界」と語っている。喜三郎の高熊山修行はこの明治三一年三月だけではない。同年五月には第二回、明治三五年初夏の頃には第三回目の修行があり、そのたびに霊界の見聞は広がり深まった。 その後の喜三郎は手さぐりで神人感合法を研究した。喜三郎が審神者(憑霊の正邪を見わける者)となり村人の有志を神主〈憑霊のかかる台)として、幾度かの失敗を重ねながらも、ついにその方法を会得する。明治三一年四月末、喜三郎は静岡県安倍郡不二見村の稲荷講社総本部に長沢雄楯を訪問する。長沢は講社の総理で神職をかね、国学者の本田親徳の教えをついで鎮魂帰神法を行なっていた。独学の喜三郎は、その道の先輩である長沢からさらに実地を学んだ。 翌年五月にも再び訪ね、喜三郎が神主になり、長沢の審神を受ける。この時、長沢により、男山八幡宮の眷族小松林命の高等神がかりと鑑定されている。小松林命は喜三郎が神の道を究めるための専属コーチであり、この先あらゆる手段で試練を与える。喜三郎の幽体離脱と憑霊現象のあらましを述べたが、このような超物理現象はなかなか信じがたいことであろう。 幽体離脱して霊界を旅するというのは現在少ないらしく、イギリスの学者C・ブラッカー著『あずさ弓―日本におけるシャーマン的行為』(岩波書店)では、「この経験は今日では比較的稀にしか起きないもののようである。出口王仁三郎の場合が新宗教の伝記の中では唯一の例である」として、『霊界物語』の第一巻目の要約をのせている。 上田喜三郎の綾部入り 出口直の三女福島久は「この神を判ける者は東から現われるぞよ」の筆先を信じ、京都府船井郡八木町の入口、大堰川の清流をひいた虎天堰(とらてんいね)に茶店を出して、山陰街道を西へ下る旅人を待つ。それから三年目の明治三一年旧六月、異様な風体の若い旅の男がこの茶店の床几に腰をおろした。久の問いに「職業は神を審神する者」といい、「一日も早く西北の方をさして行け。お前のくるのを待っている人があるとの神のお告げで旅に出た」とつけ加えた。 久は気おいこみ、母の筆先を持ち出す。ちょうど一年前の日づけである。「綾部大望ができるによりて、まことの者を神が綱をかけておるから、魂をみがきて神の御用を聞いて下されよ。今では何もわからぬが、もう一年いたしたら結構がわかるぞよ」(明治三〇年旧六月二七日〉 これが出口直と上田喜三郎を結びつける機縁であった。しばらくは園部の人々に引きとめられて病人をいやしたり霊学の普及につとめていた喜三郎が、十余里の山坂を越えた綾部を訪ねたのは、その年の十月八日のことである。直は裏町に小さな倉を借りて、一人で艮の金神を祭っていた。 直は喜三郎のまだ子供じみた若さに自をみはる。これが艮の金神を見わける人とは思えなかった。さらに稲荷講社に所属していると聞いて、「お稲荷さんでは」と不安が先にたった。喜三郎も直の高い品格にうたれながら、直をとりまく無知な役員信者の露骨な反発に失望し、艮の金神のかけた網をふりほどき、三日滞在しただけで綾部を去る。その翌日、喜三郎の後を追うようにして出た筆先が、直を驚かせた。「お直のそばへは正真のお方がおいであそばすから、来た人を粗末なあしらいいたすではないぞよ。お直はいたさねども、足立どの(当時の役員)は男子のことであるし、我も出るし、いまではわからねども、もうすぐなにごともわかるぞよ。」 明治三一年旧八月二七日「神の経綸してあることであるから、上田と申すものが出てきたなれば、そこをあんばいようとりもちて、腹をあわしていたさぬと、金光どのにもたれておりたら、ものごとがおそくなりて間にあわぬぞよ」明治三一年旧九月三〇日 つぎつぎと筆先が、喜三郎を求めて発せられた。明治三二年七月初め、役員たちの妨害をふりきり、直はひそかに迎えの使者四方平蔵を園部に派遣する。喜三郎が綾部入りしたのは、七月三日である。直が喜三郎を迎え入れたことは、直をとりまく信者間に大きな波紋を投げかけた。 喜三郎は、金光教の影響力の下でしか信者が集会できぬ現状の打破を急務とみた。民の金神を表に出すためにはまず公認の手続きをとり、宣教活動の合法化をはからねばならぬ。喜三郎の打つ手は早い。さっそく裏町の倉に世話人を集め、組織作りに着手する。ほとんどが綾部周辺の素朴な農民たちであった。早くも二日後には、本町の中村竹吉〈通称竹蔵)の家を借りて広前とし、裏町の倉から移転する。教会の名称は、艮の金神の金の字を頭にとり、日の大神、月の大神の日月を合わせて金明会とする。 七月一〇日には遷座祭が行なわれたが、祭典用に注文していた高張提燈の紋が指定したものと違っている。今まで使用していた九曜の神紋がどう間違ったか、十曜になっているのだ。当惑する役員たちの前にさっそく筆先が示される。「上田喜三郎どの、よう大もうな御用をしてくださりたぞよ。そなたが綾部へまいりたのは、神の仕組がいたしてあること、なにごとがでけるのも、みな天であらためがいたしてあることであるぞよ。九曜の紋を一つふやしたのは、都合のあることであるぞよ。いまはいわれぬ。このこと成就いたしたら、おん礼に結構をいたすぞよ。艮の金神の初まりの世話をいたしてくださるのは、まことの人が出てこねば、おさまらぬと申してあるが、この人が神のまことの世話をいたして下さるのざぞよ」(明治三二年旧六月)  この時から、大本の神紋は十曜の紋と定まり、のちに裏紋は○に十と定められた。さらに喜三郎は、霊学会を組織して、鎮魂帰神を持ちこんだ。 初めて目撃する神人感合の法は信者たちの心をとらえる。八月一日には金明会と霊学会を合体させて金明霊学会をつくり、公認結社である稲荷講社の分会という便法をとる。 その頃の大本は、出口直を中心にした筆先絶対の素朴な熱狂的集団であった。無学な彼らは筆先の真意を悟るより、文字通りま四角にしか受けとれない。「この世はくらがりであるぞよ」の筆先が出れば白昼でもちょうちんをつけて歩き、「道のまん中をあるいて下されよ」とあれば車道の中央をまかり通る。馬車がこようが人力車がこようが神の権威にかけて道をゆずらず、相手がよければ「見たか、神力を」とそっくり返る。 「この世は逆さまになりておるぞよ」とあるから、逆立ちして得意になる。非常識が常識でまかり通る世界であった。筆先には「いろは四十八文字で開いて下されよ」とある。むづかしい小理屈はやめてやさしく神の道を説けということだが、彼らには理解できぬ。漢字、横文字は目の仇、なにがなんでも排斥だ。喜三郎愛読の書籍類は引きさき、ふみつける。その上、徹夜でひそかに書きためていた膨大な原稿ですら山と積み上げて火を放ち、「外国身魂を征伐した」と狂喜する。 原稿の中にある神という文字だけはさすがに切り抜いて燃やしたから、神の字ばかりみかん箱に三杯残ったという。役員信者たちは喜三郎の霊力にこそ威怖したものの、あたたかい目では見ない。質素端正こ の上ない直の一挙手一投足こそがまさに大和魂の規範であり、好きすっぽう自にあまる喜三郎の行動は、どうでも改心させねばすまぬ外国魂のやり方なのだ。厳寒の朝夕、直は一度たりとも水行をかかさず、人類の危難を「大難を小難に、小難を無難に」と祈念し、その後に従って信者は水行をきそう。それを尻自に、喜三郎は「わしは蛙の生まれ代わりやないわい」と蒲団をかぶって朝寝する、昼寝する、宵寝する。それでも水行を強いると「水より湯の方がぬくうて、体の垢もとれるわい」とうそぶき、首まで湯につかつて鼻歌を歌う。 どんな厳冬でも直は小さな手あぶりにちょっと手をかざすだけ。だが喜三郎は衆自の中でまた火鉢、「いろは四十八番目、とどめの尻むすびのンの言霊を聞かしたる」と信者たちを側に寄せ、「うん」と力んで大砲一発、灰かぐらを舞い上げる。神前に正座して直が祝詞を奏上し一同がそれに和する長い長い間、喜三郎はひれ伏したまま頭を上げぬ。殊勝に何を祈っているかと思えば、聞こえてくる高いびき。 出口直が善の型の象徴とするなら、喜三郎は悪の型。信者から見れば、神罰があたらないのが不思議なくらいだ。ところが「直の御世継ぎは末子のお澄どのであるぞよ。因縁ありて上田喜三郎、大もうな御用いたさすぞよ」と筆先は示す。四人の姉をさしおき末娘の澄が大本の世継ぎと定まったが、何やら喜三郎もそれに関連ありそう。 「これからは出口直に取次はもうさせんから、上田どのに御用きかして、先で御世継といたすぞよ」「これから出口直と上田喜三郎どのの二人に、世のあらためをいたさすぞよ。直と上田、神が御用に立てるぞよ。艮の金持、よろずの神、出口直と上田に神懸りてまいるぞよ」 澄は一七歳、底知れぬ野生のカを秘めた清らかな瞳と恐れを知らぬ肝玉、七歳の年から他家へ転々と奉公、他人の飯粒にひそむトゲを思い知らされた。狂った姉や神がかりの母を持つきちがい筋と白い自でみられ、さまざまな苦労をなめながらも、無垢でおおらかな明るさを失わぬ。 年頃となった澄に恋いこがれる男たちは多かった。なのに神は、喜三郎と澄を結んで大本の世継ぎにと…。明治三三(一九〇〇)年一月三一日(旧正月一日)神約のままに喜三郎〈以後王仁三郎と記す〉は澄と結婚の式をあげ、出口家に入る。 大気違いと大化物「綾部の大本には出口直の大気違いがあらわれて、化かして御用がいたさしてあるから、見当はとれんなれど、もう一人の大化物をあらわせて、神界の御用をいたさすぞよ。この大化物は東からきておるぞよ。この大化物があらわれてこんと、何もわからんぞよ」 結婚間なしの筆先である。どうやら西の大気違い直と東の大化物 王仁三郎、神の綱をかけられた二横綱が、綾部大本の土俵上に引っぱりあげられた感じだ。神がこの世に聖なる教えを開こうとするのだ。もっともらしそうな、ありがたそうな神名で現われたらよさそうなもの、なのに大本の神は、ことさら人の忌む鬼門の金神、裏鬼門の金神として現われ、それも大気違い、大化物を御用に使うという。さらに「金神はこの世のえん魔であるぞよ。むかしの神代から、かげにおりてどんなことでも見ておるぞよ」と、ご念のいったことである。 しかしこれを大本を舞台にしての三千世界の大芝居とみた時、立役者出口直、王仁三郎にかかる神を意外な演出手法で登場させ、最初から観客のド肝を抜いて魅きつける心にくい技法ではあろう。しかもこれには大きなどんでん返しが用意されている。筆先によって次第に神は芝居の粗筋を示し、さらに『霊界物語』(以下『物語』と略)で脚本としてきめこまかに明かしていく。 「艮の金神は悪神でありたか、善の神でありたかと申すことが、明白にわかりでくるぞよ。いまのうちは、世間からカいっぱい悪く言わしておくぞよ。艮の金神の道は、いまの悪のやり方いたす人民からは悪く申すが、もうしばらくの間であるぞよ。悪くいわれな、この大もうはとうてい成就いたさんから、悪くいわれるほど、この大本はよくなりてくるぞよ」 善悪は相対的なものであり、悪のやり方をする今の人民からは艮の金神は悪神にみえるが、いずれは善神の証が立つという。明治憲法下での大本の主張や行動は国賊とみえ、二度までも国家権力による大弾圧が下されるが、憲法が変われば、大本の叫びは救世の思いのほとばしりであったことが、世人に理解されてくるのだ。 『筆先』と『物語』の説き示す、大本独自の神話を紹介しよう。むろんここでいう神話は文学的観点に立つものではなく、手ぎわよく論理化された思想のたぐいでもない。だが大本の教えは、この神話を踏まえて成り立つ。「良の金神は、昔からこの世をこしらえた神であるから、世界すみずみのこと、なにも知りておるぞよ。あまり世がのぼりて、さっぱり世が乱れてしもうで、これだけこの世に運否がありては、かわいそうで見ておれんぞよ」とのべる艮の金神とは、のちに『筆先』が明かすように、くにとこたちのみこと(国常立尊)のこと。大本では天地剖判の初めより宇宙をつくりかため大地の世界を開いた祖神として、国祖と称える。 国祖くにとこたちは、神に代わって地上を治めるものを必要とした。そこで有限の肉体の器に無限の火水の霊魂を満たして霊止(人)とし、男女二人の始祖を地上に下す。神代の昔は神と人ともに自立して霊と体を統べ、まつりあわせて、善美の世界を楽しんでいた。人類は生まれ、増え、やがて地上に満ちる。しかし燃える炎の末からもかすかに立ちのぼるススがあるように、体的欲望が霊を押えて邪気を発し時とともに地上界は混濁していく。神の生宮として創られた人間も人智にたけ、情はねじけ、私利私欲のために争うことをはばからぬ。邪気は邪気を呼んで天地問に立ちふさがり、神界よりの水火をはばんで、もはや神と人、天と地のまつりは断絶した。 この乱れに乱れた神界、地上界を持ち直すため、国祖は肝胆を砕いて天地の律法を定め、まず地上神界から実行して天下万民に広めようとする。しかし邪気に侵された八百万の神々にとって天地の律法は窮屈でならず、その戒律を厳としてゆるめぬ国祖が邪魔になってならぬ。そこで神々は天の大神に国祖の非をならして、直訴した。「みろくの世の持ち方でやらねばいかんと艮の金神がよろずの神に申したら、そのようなやり方では他の神がようつとめんと皆がもくろみて大神さまへおん願いをなされば、大勢と一人はかえられん、艮の金神おしこめいと大神さまのご命令で、この方は艮におしこめられて陰から守護いたしておりたなれど、この方が申した世がまいりきて、いまのていさい」 彼らの激しい不満は天の大神といえども制止しきれず、国祖に向って「すこしゆるやかな神政をしてはどうか」と説得したり、国祖の妻神とよくもぬのみこと(豊雲野尊)も「時代にあった神政を」と涙とともにいさめた。だがまちがったことの許せぬ国組は、「いったん制定した律法をかるがるしく改変すべきではない」として聞き入れない。天の大神は国祖の主張を当然としながらも、「万神に一神は代えられず」と涙をのんで穏退を命じられた。天の大神のつらい心情を察し、国祖は根底の国へ落ちゆく決意をする。天の大神は国祖にひそかに約束する。「神も時節には勝てぬから今はどうすることもできぬ。貴神が隠退すれば地上神界の乱れはつのり、やがて泥海となって滅びるような事態に至ろう。その時こそ貴神を再び地上神界の主権神に任じ、三千世界を立替えて元の神代に立直そう。貴神だけに苦労はさせぬ。時いたらば吾もまた天より下って貴神の神業を補佐しよう」  ここに国祖は神議に議(はか)られ、残酷な処刑を甘んじて受け、節分の日に艮の地(日本)に押しこめられてしまった。万神は国祖の威霊が再び出現することを恐れ、封じこめた地にしめ縄を張りめぐらし「煎豆に花が咲くまで出てくるな」と呪いの言葉を投げかけた。とよくもぬのは大神に殉じてみずから坤へ引退する。国祖に従い天地の律法を守った正しい神々たちは弾劾されて世に落ち、長い星霜をさすらう身になる。いわゆる国津神である。 押しこめた側の神々はくにとこたちを艮の金神、とよくもぬのを坤の金神と呼び、二神を鬼門、裏鬼門の悪神、崇り神として世人にいい伝え、それでもたりずに調伏の犠式は今日までつづく。「炒り豆が生えたら出してあげると申して、三千年あまりで押しこめられておりたなれど、この神を世に出すことはせんつもりで、叩きつぶしてはらわたは正月の雑煮にいたし、骨は二十日の骨正月に焼いてくわれ、からだの筋は盆にそうめんにたとえてゆでて食われたぞよ」「年越しの夜に煎豆をいたして、鬼は外、福は内と申して鬼神にいたしてこの方を押しこめなされたのが、時節がまいりて煎豆に花が咲く世がまいりたぞよ」「正月の三ケ日の雑煮の名をかえさすぞよ。この艮の金神を鬼神といたして、鬼は家へは入れんと申して、十四日のどんどにも、鬼の目はじきと申して、竹を割りて家のぐるりに立てであろうがな。そこまでしられた艮の金神」 こうして古代から日本の人民は上下こぞって国祖を呪誼し、その身魂の再現を恐れてきたのだ。押しこめた側の支配する天下は神なきものとして、形ばかりの宮は荒れ、祭りを怠り、律法は遠く忘れ去られた。われよしと強い者勝ちの地上世界は、弱肉強食がまかり通って、このままでは人類は殺し合わなくても、神々や人類の生み出した邪気で天地は汚濁し、滅亡してしまうことになる。 天運はめぐり明治二五年節分の日、天の大神の命によって、くにとこたちが因縁の身魂出口直の肉体を媒介として再び出現し、三千世界の立替え立直しを遂行することになった。大本では、艮の金神が押しこめられたのも再現したのも節分の日であることから、節分の大祭にとりわけ深い意義を感じ、厳粛に祭典を執行する。豆撒きの行事も「福は内、鬼(艮の金神)も内」ととなえ、煎豆の代わりに生豆をまく。拾った人はその生豆を大地にまいて花をさかせ、天地の恵みに感謝するならわしである。ばかばかしいと思われる読者もあろう。私たちは近代合理主義の思考法に慣らされて、神話の真髄を見失っている。 哲学者ヤスパースは「暗号解説」という言葉で神話を読み解く方法を示したが、私はこの大本神話の中に深い意味が秘められていると思う。 火と水の戦いはじまる 本来なら、王仁三郎は坤の金神のかかる台として大切に扱われるべき存在だ。だが現在の王仁三郎にはやんちゃ神小松林が占領していて、ことごとに直にたてつく。「小松林の守護の間はみなが心配をいたすなれど、すさのおの尊の分身魂で、すさのおの尊の役で、二度目の天の岩戸を閉める敵たうおん役ざぞよ」「こんどの大本の男子、女子の御用は二度目の天の岩戸を女子が閉めるおん役であるからつらい役、小松林がすさのおの尊のおん役ざ」 ここらあたりで、読者は大本という迷宮に入りこんでしまうだろう。小松林、すさのお、男子、女子、変性男子、変性女子、二度自の天の岩戸開き…わけがわかるまい。そのためには、ぐんとさかのぼって、『古事記』の神話時代をふり返らねばならない。いざなぎ(伊耶那岐大神)は三柱のみ子を生まれ、あまてらす(天照大神〉には高天原を、つきよみ〈月読命〉には月世界を、すさのお〈素蓋鳴尊〉には海原(陸を含んだ全地球、地上現界)を治めるように命じた。すさのおは、父いざなぎに命じられた地上世界を治めきれずに泣いていた。そのため地上にはよろずのわざわいが、おこり、父神の問うところとなる。 すさのおは何の弁明もせず、「母の国にいきたい」と答える。父神は「そなたはこの国に住むな」と怒り、追放する。母の国へ去る前に姉神あまてらすにことの次第をつげようと、すさのおは高天原をめざす。そのまいのぼる勢いが激しかったので姉神は驚き、「弟神が高天原を奪りにくる」と疑って戦いの支度をして待ちうけ、「何しにきたか」と詰問する。 すさのおは謀叛の心がないのを証すために、誓約(それぞれの子を生み霊魂をしらべる)をすることになる。ここに二神は天の安河を中にして誓約する。まずあまてらすが弟神の十拳剣(とつかのつるぎ)をとって三つに折り、天の真奈井にすすいでかみ砕いて吹くと、その息から生まれたのは三柱の女神であった。次にすさのおが姉神の髪にまいた「みすまるの珠」や左右の手にまかれた珠をとって同じようにかみ、吹き放つと、生まれたのは五柱の男神。あまてらすはいう。「後に生まれた五柱の男神は、私の持っている珠から生まれたから吾が子。先に生まれた三柱の女神はそなたの剣から生まれたから、そなたの子です」と。 王仁三郎の説くところにでは、この霊魂調べの結果、あまてらすの霊魂は五つの御霊、すなわち厳(いづ)の身魂であり、女体に男霊を宿すから、変性男子という。またすさのおの霊魂は三つの御霊、すなわち瑞の御魂であり、男体に女霊を宿すから、変性女子という。 変性男子、変性女子は大本独特の用語だ。神界の都合でくにとこたちの霊魂を女体に宿した直を変性男子、逆にとよくもぬのの霊魂を男体に宿した王仁三郎を変性女子といい、出口直は厳の身魂、出口王仁三郎は瑞の身魂という。したがって筆先で男子といえば直、女子といえば王仁三郎を指すから、ややこしい。 さて、警約の結果、すさのおの心はやさしい女神であり、これによって邪心のないことが証明された。するとすさのおは「私の心は清く潔白だ。私の勝ちです」といって、勝った勢いでさまざまの乱暴をする。あまりのことにあまてらすは天の岩戸にこもってしまう。高天原は闇となり、いろいろの災いがおこってきた。困りはてた神々は知恵者おもいかね(思金神)に知恵を傾けさせ、岩戸を開く方法を実行した。まず長鳴(ながなき)鳥を鳴かせて夜明けを告げさせ、祭の用意をととのえ太祝詞を奏上する。うずめ〈天宇受女命(あめのうずめのみこと))が伏せた桶の上で足を踏みとどろかし、乳もあらわに踊り狂ったので、神々は高天原がゆれるほどに笑った。 あまてらすは不思議に思い、岩戸を細めに開いて声をかける。「私がこもったので高天原は暗いはずなのに、なぜうずめは遊び、神々は笑うのか」「あなたよりもっと尊い神がこられたので、喜んで遊んでいます」 すかさず鏡を近づける。鏡に写ったご自身の姿に驚きあやしみ、少し戸から出てのぞいたとき、戸のかげに隠れていたたぢからお(手力男命〉が手をとって引きだし、その後にふとだま(布刀玉命)がしめ縄を張って「もうこれより中へ入らないで下さい」と申し上げた。 あまてらすが岩戸から出られたので、この世界は明るく照りわたった。八百万の神々はともに議って岩戸がくれの原因をすさのお一神にきせ、そのあがないのためにひげを切り、手足の爪をはいで、高天原から追い出してし支った。地上神界では国祖を艮に封じ、地上現界では司神たるすさのおを追放して、永久にめんどうなものは退治した。 さて、これでめでたしめでたし、何の疑問も抱かず、ここまで時は流れてきたのだ。ところが当時の岩戸の開き方が第一気に入らないと、筆先はずばり指摘する。「まえの天照大神宮どののおり、岩戸へおはいりになりたのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのが嘘を申してだまして無理にひっぱり出して、この世は勇みたらよいものと、それからはあめのうずめどのの嘘がてがらとなりて、この世は嘘でつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり」  神代のむかし、万神は嘘やいつわりであまてらすをだましたうえ、カまかせに岩戸からひっぱり出し、それをてがらとして自分たちの行為をかえりみなかった。神がこうだから、神にまことがないため、それが地上世界に写って人民が悪くなる。目的さえよければ手段をえらばぬいまの人民のやり方が、どれだけ世を乱してきたことか。たしかに岩戸開きの神話は日本国民によって批判なく受け入れられてきたが、この世は出発点からあやまった。その悪の原点が天の岩戸びらきにあると、天皇制絶対下の当時、さすが至厳至直をもって鳴る艮の金神が、大胆にもはっきり告げる。         いま、世界はまさに岩戸の閉められた状態に向っている。二度目の岩戸開きの時は、一度目と同じ過ちをくり返してはならぬ。今度こそ嘘とカで外からこじあけるのではなく、誠によって内から開かれ、この暗黒の世に真の光を投げかけるものでくなくてはならない。第二の岩戸開きは立替え立直しと共通項でくくられるものであり、それが相互に内的関連性をもっているといえよう。 役員信者の目から見れば、王仁三郎の野放図な言動は、筆先に裏打ちされた二度目の岩戸をしめる悪神小松林のしわざにちがいない。だが厄介なのは、けしからんからといって追い出すわけには参らぬことだ。悪いのは直にはむかう小松林であり、それさえ追い出せば、いずれ坤の金神のかかるかけがえのない王仁三郎の肉体なのだ。王仁三郎が筆先の正しい解釈に立ち、役員信者たちの頑迷固陋と戦い、教義の具体的な開明化をはかろうとすればするほど、彼らはそれを小松林命の悪の仕組と断じ、まごころ一途に妨害する。王仁三郎の肉体から小松林がどかぬなら自分の腹をかき切ろうとまで、本気で迫るのだ。 人間心で心配した直が神に問うと、神は笑って答える。「この者でなければできぬわいや。御苦労ながらこの御用、わざと化かしてあるわいや」 ところが王仁三郎と役員信者との対立の間はまだよかったのだ。 「元伊勢のうぶだらいとうぶ釜のお水は、昔からそばへも行かれん尊い清きうぶ水でありたなれど、こんどの世の立替えについて、綾部の大本から因縁ある身魂に大もうな御用さして、世界を立直すのに、むかしの水晶の変わらん水を汲りにやらしてあるぞよ。艮の金神の指図でないと、この水はめったに汲りに行けんのであるぞよ。この神が許したら、どこからも指一本触る者もないぞよ。こんどの元伊勢の御用は、世界を一つにいたす経輸の御用であるぞよ。もう一度出雲へ行きてくだされたら、出雲の御用を出来(しゅったい)さして、天も地も世界を均(なら)すぞよ。この御用をすましてくださらんと、こんどの大もうな御用は分かりかけがいたさんぞよ。世の立替えは、水の守護と火の守護とでいたすぞよ」明治三四年旧三月七日 明治三四年四月二六日、直、王仁三郎、澄ら一行三六人は、神命により丹後の元伊勢(現京都府加佐郡大江町)へ参拝する。伊勢神宮の元宮であり、わが国神社神道の発祥の聖地、あまてらすを祭るいわば天津神の故郷である。そこには汲み取り禁制のお水があり、一日中見はっている。その水を禁をおかして持ち帰る。神前に供えた竹筒の水はとり分けて少しずつまわし呑みし、因縁ある三ケ所の井戸にもそそがれた。これを「元伊勢水の御用」という。 続いて七月一日、直、王仁三郎、澄ら一行一五名は神示に従って国津神の本拠地、すさのおに因縁深い出雲へ旅立つ。徒歩と船の長途の旅だ。目的は出雲大社の消えずの神火をいただくことである。檜皮(ひわだ)製の火縄に点火された火を一行が捧持して綾部へ持ち帰り、神前に百日間ともしつづけた後、一五本のろうそくに移してともしきり、天へかえした。これを「出雲火の御用」という。 無意味とも思える水の御用、火の御用に、神はどのような意志をこめたのか。あまてらすとすさのお、天津神と国津神、火と水、征服者と被征服者、上に立つ神と世に落としめられた神…その両者の霊魂をそれぞれ因縁の地から迎えたのだ。けがれきったこの世を元の水晶のみ世に洗い清めるためには、もっとも強い霊威、清浄力を持つとされる火と水、それも神火、神水が必要と神はいう。 出雲の神火をささげての帰途から、早くも霊威が現われたか、直と王仁三郎の間に激しい対立がきざし、綾部に帰るとそれはいっそう熾烈になった。神話の世界の中でしか生きていないはずのあまてらすが直に、すさのおが王仁三郎にかかって、髪はさかだち、家をゆるがせて四肢をふみ、たがいにおたけびあう激しい葛藤を演じるのだ。神霊同士のぶつかりあいだから、火水の戦いとよぶ。大方の読者は信じられまいが、それが大本の活歴史なのだ。 機の仕組の特異な発想 これをドラマとみたてた場合、ヒーロー、ヒロインともいうべき王仁三郎と直が互いに相手にかかる神を悪神と判じて改心をせまりあうなど、類のないおもしろさではないか。しかも見る者は、どちらが善か悪か、幕が閉まるまで分からない。だがなぜ丹波の一教団が三千世界の立替え立直しなどできるのか。なぜ王仁三郎が改心しなければ世界がよくならないのか。艮の金神は、いうことをきかぬやんちゃな王仁三郎を、こうまで苦労して大本に引き止める必要があったのか。 もし型の思想を知らなければ、読者の頭には、疑問がいっぱいであろう。「むかしからこの世くるのは知れておるぞよ。この世のかわりめに、神がなにごとも知らせなならぬから、むかしから変わらぬ精霊(みたま)を天にひとり、地にひとり、この世にお役にたてる精霊を一人おとしてありたぞよ。この世になれば、艮の金神の取次といたして、三千世界を神国の世に開くぞよ。めずらしきことがでけるぞよ」明治二九年旧一二月一五日 直、王仁三郎を立替えの主役に仕立てるために、神は三千年間、天に一人、地に一人、血を選抜いてきたという。だからおいそれと代役を立てることはできぬ。大本の役員信者たちは思う。世界が悪いのは王仁三郎にすさのおがかかり、艮の金神にたてついて悪のヒナ型を示しているからだ。改心すればそれが反映して世界がよくなる。王仁三郎の改心いかんは、たんに教団だけの問題にとどまらず、世界の明暗を分ける重大問題なのだ。それも王仁三郎が悪いわけではない。なぜなら神代の昔、一度目の岩戸開きを嘘とカで開いたため、いまこそやり直さねばならぬ。二度目の岩戸を開くには、まず前段階として岩戸を閉める役者がいる。その悪役を、すさのおのかかる王仁三郎が演じる。だから王仁三郎もまた神に使われるご苦労なお役というわけだ。 何という奇想天外な発想であろう。『筆先』は「王仁三郎はこうして反対しもって錦の機を織るのであるから」というが、これは「大本は機の仕組」という神示による。「錦の機の下ごしらえであるから、よほどむつかしきぞよ。この中におりよると、魂が磨けるぞよ。磨けるほど、この中は静かになるぞよ。機の仕組であるから、機が織れてしまうまでは、なにかそこらが騒がしいぞよ。錦の機であるから、そう早うは織れんなれど、そろうて御霊が磨けたら、機はぬしがでに(一人でに〉織れて行くぞよ」明治三三年旧八月四日 錦の機とは綾錦を織ることを指すが、みろくの世にいたるまでの道程をさまざまに織りなして行く人々の苦節を色糸にたとえ、象徴的にいったものであろう。機は経糸と緯糸で織りなされるが、直と王仁三郎の二つの魂の要素ともいうべきものが、経と緯との関係になる。出口直 経糸 艮の金神国常立尊 あまてらす大神 変性男子 厳身魂出口王仁三郎 坤の金神豊雲野尊 すさのおの尊 変性女子 瑞身魂  神から大気違い、大化物と示された二つの際だった個性が対立し、ぶつかりあい、からみあう生きざまの鮮やかな対象がいつのまにやらそのまま組みこまれ、大本の歴史を作ってゆく。直による神の証しと王仁三郎にかかる神の教えが火と水、男子と女子、父と母、天と地、小乗と大乗、ナショナルとインタナショナルというように、まったくあい反しつつ経糸、緯糸となって錦の機が完成する。「古き世の根本のみろくさまの教えをいたさなならん世がまいりきて、錦の機のたとえにいたすは変性男子〈直)のお役は経のお役で、初発からいつになりてもちっとも違わせることのできん、つらい御用であるぞよ。変性女子(王仁三郎)は機の緯の御用であるから、さとくが落ちたり、糸が切れたり、いろいろと竣のかげんが違うたりいたして、何かのことがここまでくるのには、人民では見当のとれん経織がいたしてあるから、機織る人が織りもってどんな模様がでけておるかわからん経論がいたしてあるから、でき上がりてしまわんとまことの経論がわからんから、みな御苦労であるぞよ」 この筆先には経緯の役目の相違がはっきり示されている。経糸はいったんピンと張りおわると、後はびくとも動くことはできぬ。国祖がたとえ天の大神の言葉であろうとも、がんとして緩和的神政をしなかったのは、経糸の厳の御霊の役目だからだ。もし国祖が妥協していれば経の役目ははたせぬ。それが経糸のつらいところ、だが張りおわってしまえば後は緯糸の役目。緯糸は、張りつめた経糸の間をくぐり抜けるたびにオサで打たれながら、さとくが落ちたり、糸が切れたり、俊のかげんが違ったりしつつ、錦の機の完成まで休みなく動きつづける。これまたいっそうつらい役。「機の緯織る身魂こそ苦しけれ 一つ通せば三つも打たれつ」  この経糸と緯糸とをたくみに織り上げるのが筆先的表現をすれば経論であり、人間はその一筋の糸として参加するためにこの世に生まれてきたということになる。人間が創造したとされる文化にしても、人間がおのがむきむきにやっているようで、実は機の模様として織りこまれているのだ。短い糸をつなぎ合わせ、より合わせて、いつか時代の流れの色模様が染め上げられてゆく。 大本の中で織られる機は日本の、世界のヒナ型であるべきみろくの教え、錦の機でなければならぬ。 水晶の世にする種 明治三五年三月七日、王仁三郎の長女直日が生まれ、大本の中はわき立った。この子はただの子ではない。三代のご世継ぎになるみ子である。前年の火の御用の帰途、澄の懐妊が判り、同時に火水の戦いが勃発するのである。大本では、理想世界について、弥勒の世、松の世、神国の世、日の出の守護などと表現する。またこの泥の世を澄みきらせて「水晶の世」を迎えるという。直は孫の直日に夢をたくし、「水晶の世」にするための「水晶の種」とした。信者にとって、直の言葉は絶対である。彼らは、直日の生きている間に水晶の世が実現すると信じた。大本が世界の型であるうえは、直日をこの世の泥にまみれさせることなく清く正しく育てあげる。それがひいては世界のためと信じた。直日誕生の秋、役場から種痘の通知がきた。「水晶のお種をつらぬかねばならんさかい、血をまぜこぜにはできぬ。灸もすえることはならんで」と直はいいはる。 しかたなく澄は母に内密で二〇銭の罰金を工面するため、箪笥(たんす)の中身が質屋に移動した。翌三六年春にも王仁三郎はそっと罰金を払っている。「この子に疱瘡をうえたら、世界はいったん泥海になる。もしそんなことになったら、私は申しわけに自害してもおっつかんのやで」とは、神命より国の法律を優先させようとする王仁三郎夫妻への、直の深い嘆きだった。 いきさつを知らぬ信者は「さすがに役場や警察も、水晶の身魂の直日さんには牛の種よううえん」と鼻息荒い。王仁三郎は世間の誤解を恐れ、罰金を支払ったことを打ち明けた。彼らの顔色が変わった。蓑笠をつけた役員たちは団体で警察や役場へ押しかけ、「支払った罰金を返せ」と座りこみの強談判をはじめる。「銭おしみでいうのやない。この濁りきった世界にただ一粒神より授けられた水晶の種、まじりけなしのあの子にだけは、種痘はさせられん。だからといって罰金を出せば、日本が外国に頭を下げて負けた型になる。日本のためにも罰金を返せ。法律できまっているというなら、悪法を改めよ」  相手にされぬと、福知山の検事局まで押しかける。手こずった検事局が「国法を無視してそんなわけのわからぬことをいうと、軍隊をさしむけて大本をたたきつぶすぞ」とおどせば、日頃おとなしい役員の四方平蔵までが痩せ腕をまくり上げ「やあ、おもしろい。軍隊が大本を叩きつぶせるものかどうか、神力と軍隊のカくらべをしよう。何万人でもさし向けてみろ」と力み返る。何ヵ月もごたごたしたあげく、国の権力には勝てず、泣き寝入りになった。 これからの毎年、王仁三郎は役員には極秘に罰金を納めて切り抜けてきた。王仁三郎は、直日の種痘ぐらいのことで教団の存否にかかわる問題にまでこじらせたくはない。だが直や役員たちがこうまでして直日の純潔を保とうとする気持は、笑い捨て去れぬ。世の中は何もかもごちゃごちゃになろうとしている時世に、まざりけなしをつらぬき通そうという意志は尊い。もし直日に種痘を強行していれば、直や役員信者たちの誇りは切りさかれよう。そして純潔に対して、彼らの心は免疫になる。だが問題は、種痘をしたことで本当に血が汚れるのか。主仁三郎はそうは考えていなかった。この問題の中にも、宗教のもつすばらしさも恐ろしさも同居しているように思える。 明治四四年、もう逃げ切れぬと観念した澄は、小学四年の直日にいい聞かす。「直日さん、日本の国には法律いうもんがあってなあ、日本に住む限り、誰でも種痘するように決められている。天子さまかて、しとってや。お前が種痘せなんだら、今年こそ、お婆さんも、お父さんも、お母さんも、みなお前のために縛られて、牢に入れられんなんのやで」  だが直日はぐいと口を引き結んだままだ。種痘すれば大好きな祖母が神さまのおわびのために自害する、そう思いこんでいる。古川医師が大本へきて、直に種痘の必要性を根気よく説いた。だが直の心は動かず、逆にカソリックの熱心な信者である古川は、その信仰の深さにうたれ、動かされる。古川の知恵で、微量の直の血が採られ、その血で直日のふくらはぎに真似だけの種痘がされた。その傷口を、直は念入りに塩で清める。傷はあとかたも残らなかった。こうして永年続いた種痘問題もようやく決着がつく。 これらをことさらのべたのは、直日の幼年期、少女期を通じて彼女の性格形成に大きく影響したと思われるからである。もの心つく以前から自分だけは特別だという自意識は、いやおうなく植えつけきざられた。同時に父や母に、不信の念が兆さなかったろうか。直日にとって、祖母は絶対である。それに逆らいがちな父母への批判の芽は年をへて育ち、根を張り、晩年の三代の世を形づくる。 水晶の種直日とともにもう一人、大本には希望の星があった。直の次男出口清吉である。清吉は明治五年生まれ、親孝行で男らしく気っ風もよかった。兄竹蔵が行方不明となってから、事実上の長男としての重荷をおってきたが、明治二五年東京の近衛師団に入隊する。明治二七年八月、直の予言通りに日清戦争が勃発し、翌二八年四月、日本の勝利でおわるが、この結果、植民地として台湾の領有が決まる。日本は軍事抵抗を予想して近衛師団を台湾に派遣したが、その一兵の中に清吉がいた。五月二九日近衛師団は台湾に上陸、抵抗らしい抵抗もなく台北に無血入城、一〇月一九日、抗日軍は降伏して、近衛師団は台南に入城する。 その頃(旧九月〉出口清吉が戦死したという不吉な噂がどこからともなく綾部の町に広がった。直が神にうかがうと「清吉は死んでおらんぞよ」との答えが返ってくる。役場から軍隊に問問い合わせたが、清吉の入った隊に戦死者は一人もいないとのこと。なんども問いあわせた結果、「清吉は戦死したから骨を取りにこい」という役場の通知がくる。直は骨壷と対面して思わずかっとし、「こら艮の金神、嘘ぬかした」と叫び、「もういうことは聞いてやらん」とまで反抗する。それでも艮の金神になだめられ、清吉の遺骨ではないと思いこむようになる。 戸籍に記された清吉の死は明治二八年八月一八日だ。日本軍の兵力は二個師団半、人数にして五万人、その中で戦死者はわずかに一六四人、もし清吉が戦死したとするなら二五〇分の一の貧之くじを引きあてたこ とになるのだろうか。やがて国から戦死者弔慰金まで出されるが、それでも筆先には、「清吉は死んでおらんぞよ。神が借りておるぞよ。清吉どのとお直どのがこの世のはじまりの世界の鏡」と示す。 だがついに直のもとへ清吉は帰ることはなかった。これをどう理解すればいいのか。筆先は平仮名と数字が主体で、句読点がない。だから片仮名ばかりの電報がしばしば誤読されるように、判断に迷うことがある。たとえば「かみ」とあっても、神、紙、髪、上、守などといろいろある。さらに句読点のつけようで、意味がまるで変わってしまう。「ものさしはかります」という看板は「物差計ります」と読みたくなるが、実は「物差、秤、桝」という計量器の看板だったりする。筆先の「清吉は死んでおらんぞよ」にしても、「死んではいない」なら「生きている」わけで、直はじめほとんどの大本信者はこの希望的解釈をしていた。ところがもし「死んで、おらん」とすれば「死んで、もういない」で、全く正反対の意味をもつ。句読点のあるなしは神のみぞ知るだ。あるいはまた、折衷的なときかたもできる。肉体は死んでいるが、魂は生きて活動しているというように。 ではなぜ清吉の生死が重要かというと、筆先に清吉の御霊の因縁が「日の出神」と示されているからだ。筆先に現われる神々の中では一番魅力あるスター、闇の世の夜明けを告げる日の出神が清吉。だからこそ清吉の生死にこだわるのは当然だし、日の出神問題は第三次大本事件にも重要な影響を与えている。世間から気遣い集団としかみられぬ当時の大本である。どんなに自負はあっても、世間の蔑視はこたえたであろう。しかし彼らにはそれをはね返すだけの期待があった。日の出神としての清吉が、今にも外国から大手柄をたてて帰ってくる。その時こそ待ちに待った「日の出の守護」の世になる。彼らにとって、清吉はまさしく救世の大英雄であった。 ではこれに対して、王仁三郎はどのように考えていたのだろうか。火水の戦いたけなわの明治三七年一〇月三〇日、神示によって『道の栞』に書き記す。「日の出神は変性女子に引き添いて高天原へ現われ給えども、誰知るものなし。生魂の如何なるものか誰知らず。憐れなり。死んで居らぬ肉体にも、言いよう説きようによりて、生身ともなり死身にもなるべし。生身と生魂の区別を能くわきまえて不覚を取るなかれ。そのままの肉体にて使われるものと、肉体を代えて使われる生魂とあり。肉体代わるとも生魂の働きあるものは、その者の肉体生きたるも同じきなり。この世の救い主は、天より下りて御稜威たかく輝き、龍宮館に現われ給えり」 王仁三郎のいいたいのは、出口清吉にかかる日の出神の生魂は、肉体を代えて自分にかかり救い主としてすでに現われているのに、直をはじめ誰も知らない。なぜ清吉の肉体だけを求めるのかということだ。もちろん、悪神と非難されているこの時点、ひそかに書き置くだけである。 明治三八年の筆先には「小松林は上田喜三郎のおりのご用でありたのざぞよ。出口王仁三郎になりたなら坤の金神となりて、夫婦そろうておんな役をさすのざぞよ」と示され、直と王仁三郎にかかる神々の対立がおだやかになった。しかし直にとって、王仁三郎に坤の金神がかかったとしても、妻神すなわち補佐役になったに過ぎない。それよりも、天の大神さまがいつ地に降ちてお手助けして下さるのかと待ちわびるのであった。 筆先の予言通り、日露戦争も日本の勝利におわった。しかし役員信者が待ちかねていたような大本神のはなばなしい出番はなかったし、世界の立替えにも直接つながらなかった。熱狂から冷めると、彼らはそれぞれの暮らしに戻っていった。 明治三九年九月、王仁三郎は綾部を離れ、三六歳で京都の皇典講究所教育部本科二年に編入する。四一年、金明霊学会を再編成し大日本修斎会と改める。この年の末、皇典講究所を卒業して神宮の資格を得た王仁三郎は、建勲神社や御獄教などで教団運営の実地を学ぶ。綾部に帰るなり、ふところの全財産五〇銭銀貨一つを役員に握らせ、大広間を立て増す古家を探してこいと命ずる。後の金などどうにでもなる、たとえ無一文でも仕事さえすれば金の方で追っかけてくるというのが、彼の信念だ。 王仁三郎は腕をふるって教団の立替えをはじめた。すでに教義はできていた。祭式をととのえ、組織を充実させる。四二年二月には機関誌『直霊軍』を創刊して、出版活動に乗り出す。五月五日大広間上棟式、さらに神苑を買い広めて秋には開教以来の念顕であった神殿も完成する。教勢は日に日に発展し、カある新しい役員たちが王仁三郎を支えて、大祭は年ごとに賑わってくる。 大槻米、福島久についた金毛八尾の狐 大槻鹿蔵・米夫婦のことを直は「鬼と大蛇の霊魂の夫婦」といい、「大本は善と悪の二つの型を出すところだが、他人の子には傷がつけられんから直の血筋に悪のお役をさせてある」と教えていた。その鹿蔵の晩年はみじめで、明治四五年三月、狂った妻を残し七四歳で没した。大槻の家は三〇円の借金の抵当にとられ、家を失った米は本宮山の麓に造られた頑丈な座敷牢に入れられていた。大正四年一月末、八木の福島久は座敷牢に姉を見舞った。この寒中、米は腰巻一枚の裸であった。狂った米は、腰巻以外のいっさいをずたずたに引き裂く癖があった。 着物を入れてもすぐに細かく裂いて三つ編みにし、天弁から下げて火縄にしてしまう。そのくせ、どんなに寒くても風邪ひとつひかない。初めの頃、近所の人が「なんぼ気違いでも、裸にむいとくのはけしからん」と憤慨し、大本に交渉して一組の浦団を座敷牢に差入れたが、翌朝のぞくと布はきれいな幾つかの糸玉になり、中身の綿は無残にも引きちぎられ窓の格子から一面に外へ散っていた。そのくせ糠で顔を洗い、花いかだ〈白粉下〉をはたく、おしゃれは怠らない。子を生んだことのない乳房はたるまず、六O歳という年では信じられぬほど若い。 たらいで行水させると、いかなる現象か湯が乳のように白濁したという。牢にいながら、世間のことはなんでも見通しであった。人の運命の予言もあたった。妊婦には「なんぼ離れていても『お米さん、頼むで』というたら、必ず守って安産させてあげるで」といい、一部からは安産の守り神のように崇拝されてもいた。 久は、薄暗い牢の中に裸でいる姉を見て、思わず神に祈る。「米姉さんを助けとくれなはれ。どうぞ、どうぞ、姉さんの苦しみの半分なりと私の肉体が引き受けますさかい、姉さんを楽にしてやって下され」 それから一週間ほどした二月三日夜半、久は異様な感覚でふと目ざめた。初産のあとの神がかり体験から、再び憑霊現象が起ころうとしていることを知った。だがそう意識できたのはつかの間、久は完全に別のものに支配され、荒れ狂っていた。その荒い神がかりが次第にしずまると、立居振舞い、足さばきまで自分と思えぬほどおっとりと媛美になる。よほど立派な神さまがうつられたかと、久はほっとする。だがもし邪神であったら取り返しがつかぬ。夫寅之助と相談し、大本の八木支部の役員を招集して審神(さにわ)してもらう。 神前に進み出る久の足取りは、十二単衣の裾をひく姫君でもあるかのような気品に満ちていた。役員らは高貴な神がうつったものと思った。五日朝になって念のために自己審神をしてみると、少し怪しい点が発見された。一途な久のこ と、ただちに全裸になり、素足で雪庭にとびだし自分の憑霊にむかって激しく問いつめる。その勢いに、憑霊はついに口走った。「ああ、残念しごく、いままであまり悪事を働いてこの世を自由にいたしてきたが、もうこれから先の世は悪ではちょっとも行くことができんから、お血筋の肉体に忍びこみ元の名を隠して善の道を働こうと思うたなれど、こう天地から責め立てられてはかなわぬ。やっぱり本国へ帰ろうかのう」 いうなり久の肉体から幽体がするりと抜けて、空中を北へ向かって飛んでゆく。それは八つの尾を持つ巨大な蛇体であった。驚いた久は、井戸に走って、井戸の底が空になるまで水を浴びた。そして家に入るや、娘に体が痛くなるまで塩で清めさせ、神前でひたすら神に祈った。するとまた憑霊が現われて、「大本へお参りに連れて行って下されば、正体を現わして大神さま(直のこと)に、お詫びいたします」と頼む。 久は夫と支部の役員二人に連れられてつき添われて綾部へ参拝、大暴れして醜態を演じる。その夜は綾部で泊まるが、午前三時頃、憑霊の幽体が現われ「お約束通り、正体を現わします」という。たちまち色彩があふれ出し、まばゆいばかりに豪華絢爛たる裳裾が八畳の間も狭いばかりに広がった。憑霊は久にわび「あなたの、おっしゃることなら、どんなことでもいたします」という。「その装束を脱いで丸裸で便所の掃除をしてこい」と久は命じる。素直に憑霊は裸になって出て行ったが、やがて息せき切って帰ってきて、「下の便所の掃除をすませ、今度は開祖さまの便所の掃除をしようとちょっとお部屋をのぞきましたら、開祖さまのえらい御威光に身がすくんでどうしても行けんので、とんで逃げて帰りました」と告げた。 翌日、綾部釈に向う途中、後から何者かがついてくる気配にふり向くと、久の霊眼に憑霊の正体がはっきり映る。全身、夜でも光り輝くような金色の毛を持ち、八つに分れた尾の先には金色の玉のついた狐である。憑霊は「今までこの尾で世界中をだましてきました。世の中の人間の九分までは私の子分が憑いているので気をつけて下さい」といい、これまでしてきた企みを懺悔し、久を驚かせた。八木に帰った久に激しい試練が待っていた。「いよいよ八木の自宅に帰りました。サアそうするといよいよ夫婦度胸定めの一段、一生懸命の舞台となりました。一番に私は主人にくってかかり手をひとかぶりかぶってとってしまうやら、主人の胸倉をつかみ『殺してやろう』と申して非常な乱暴をして主人の度胸を見ましたら、なかなかよく度絢がすわっておりますから主人はびくともせず、『なにその方ぐらいが百人千人束になってきたとて驚くものか』というなり即座に私の手足をひっくくり、柱にくくりつけてしまいました。それが二月の七日でありましたが、二八日まで一つも御飯は食べずに竹の根節の高い柄のさいはらいがササラになるところまで打たれまして、顔一面紫色に死んでしまうところまで一生懸命の度胸定めをしられました。 その間に私の霊魂は宇宙にあらん限り一昼夜の間に外国へ行ってきたり、また日本国中をかけ歩きましたが…」『神霊界』大正七年三月号「顕幽出入談」 二二日間、久は柱にくくられたまま、飲まず食わずの荒行をさせられ、霊魂は幽体離脱して地獄界を見聞する。寅之助初め役員たちは、これだけ飯も水も口に入れねば命はないものと覚悟していた。ところが久は、突然正気にかえり、みなを驚かす。この異様な体験によって、福島久に救世の激しい使命感が燃えあがる。その結果、久は狂熱的な宣教活動を行ない、横須賀海軍機関学校の英語教官浅野和三郎らを信仰に導き、軍人や知識人らの大量入信の導火線になる。澄は『上申書』で「教祖は『〈久には〉どうもこうもならぬ神が守護しておる。あの方の系統の霊にはこの神さまは御苦労しておられるのじゃ』といわれました。 話かわりまして大槻鹿蔵、米。鹿蔵は八頭、米は八尾、綾部の大本をつぶさんと永い苦労をしましたがかなわず、乗り替えて八木の久子に、これからさまざまの活動をいたすのでございます」とのべるが、米にかかった霊が久に移ったためか、この年の五月七日、米は誰も知らぬうちに座敷牢の中で静かに息を引きとっていた。 王仁三郎にかかる霊はみろくの大神だった大正五〈一九二八)年四月二二日、本格的宣教体制をととのえおわり、「皇道大本」と改称する。六月二五日未明、一行六三名が三隻の船に分乗、高砂港から神島に向う。一行中わけても目だつのは王仁三郎の女装と直日の男装だ。大きく髷をゆい残った黒髪を背と肩に流した王仁三郎、裾模様をかさね着して前結びの帯、長万を握っている。直日は髪を束ね、白の剣道着に横縞の袴を短くはき、脇差をさした武者少女の姿。左手に「木の花直澄(このはななおずみ)」(直日の雅号)と書いた笠を持つ。「一つ島、一つ松」の神示のまま探し求めた神島(上島)は、播磨の高砂沖合い三里にうかぶ丸みをおびた小さな無人島。 ここに三千年汐浴みながら隠退しておられた坤の金神の神霊を、綾部に迎えるための行事であった。島の山頂より潮風に向い、王仁三郎は石笛を吹き鳴らす。女竹をきって弓矢を作り、えびづるのしなやかな茎で弓づるを張ると、一同の合掌の中、この世の邪気を射放つ型を四方に示す。持参した宮に坤の金神の鎮坐を願い、山頂の式典が行なわれた。 帰途の船中で王仁三郎は男装に戻る。二八日午後、綾部に帰着した王仁三郎は再び女神姿になり、教祖室の襖を開いた。直は驚いて身じまいを正し、声をあげる。 「坤の金神さま…」 この日をどれだけ待っていたろう。直にかかる艮の金神と王仁三郎にかかる坤の金神が世に落とされて、永の年月、絶えて久しい再会なのだ。夫婦対面の神霊の喜びをこめて、その夜、祝いの杯をかわした。一〇月四日午後四時、三度目の神島参りに出発する。このたびは直が加わった。出口家親戚一統、役員信者たち計八一名。神島参りを終った出口家一族はその夜、大阪松島の谷前貞義方に宿泊した。 直は神島から捧持した宮のそばで筆先を書いていた。その部屋の前を通りかかった澄は、母の背に異様なたかぶりを感じる。宮の前に顔をふせ震えている。戸をかけると、ふりむいた直の顔に血の気がない。しばらく息をつめ、思い決したように「先生がのう…先生がみろくさまやったでよ。先生はみろくの大神さまじゃと神さまがおっしゃる。何度お聞きしても同じことや。私は今の今までどえらい思い違いをしていたのやで」と一気にいい、いま書いたばかりの筆先を澄に渡した。 「みろくさまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、すさのおの尊と小松林命の霊がみろくの神の身魂で、結構な御用がさしてありたぞよ。みろくさまが根本の天の御先組さまであるぞよ。くにとこたちの尊は地の先祖であるぞよ。二度目の世の立替えについては、天地の先祖がここまで苦労いたさんと、ものごと成就いたさんから、永い間みな苦労させたなれど、ここまでに世界中が混乱(なる)ことが、世の元から分かりておりてのしぐみでありたぞよ。…なにかの時節が参りたから、これから変性女子の身魂を表に出して、実地のしぐみを成就いたさして、三千世界の総方さまへお自にかけるが近よりたぞよ。出口直八一歳の時のしるし」大正五年旧九月九日 みずから書いた筆先で、直は肝たまがでんぐり返るような衝撃をおぼえたであろう。神命によって澄の婿にはしたものの、人間心では常に批判せずにはおれなかった男 王仁三郎。彼にかかる小松林を悪神と信じ、どこどこまでも追いつめ追い落とさずにおれなかった。王仁三郎にすさのおがかかった時も、岩戸を閉めた元凶として激しく戦った。しかも神は、王仁三郎を経糸に対する緯糸、厳に対する瑞、変性男子に対する変性女子とし、みろく神業には欠かせぬものと規定した。 直は悩みぬき、ついに王仁三郎こそ坤の金神の御用という動かぬ認識に立つが、あくまで直にかかる艮の金神の補佐神としてであったのだ。自分が主で王仁三郎が従、だから直は、神約による天の大神さまの御加勢をひたすら待ちつづけた。ついに神は、ここに至って真栢を明かした。坤の金神も、すさのおも、直があれほど非難した小松林もみろくさまの霊であり、みろくさまこそ根本の天の御先祖さまだと示された。すでに天の大神さまは上田喜三郎の肉体にかかって明治三二年からお手伝い下さっていたのに、それに気づかずに一八年がうかうか過ぎたのだ。大本の活歴史はまさしく神の仕組んだ勇壮なドラマであり、登場する役者たちは神の網に引き寄せられ、縦横にあやつられてきた。そのあげくのみごとな逆転劇である。 大本でいう「立替え立直し」とは、すべての価値観の転換でもあろう。悪神祟り神として押し込められていた艮の金神、坤の金神がこの世を造りかため、すべてを生成化育してきた人群万類の祖神であると認識することは、第一に天地のひっくりかえるような神観の根本的転換でなければならない。第二に、みろくの神の出現によって大本の内側におこった認識の転換である。王仁三郎にかかる神霊は、実は艮の金神に再出現を命じた天の主体者であり、大化物として変化(へぐ)れに変化れ、直と対立するように見せながら実は直の神業を助けてきた。すでに大正五年旧七月二八日の筆先で「みろくさまの、お出ましになる時節がまいりてきて、天と地の御先祖が表になりて、三千世界の世の立直しをいたすぞよ」と予告し、「大事の経綸は今の今まで申さんということが、筆先で気をつけであろうがな」と注意もあった。この神島開きの筆先は、大本のいままでの神観にたいして大きく修正を命じるものである。 「これから変性女子を表に出して、実地のしぐみを成就いたさして…」の神示が出て初めて、今まで絶対に許されなかった筆先の選択や添削、漢字の使用が王仁三郎によって晴れて可能になり、『大本神論』として世間に広く呼びかける発火点になる。王仁三郎の肉体に「みろくの大神」がかかったなどといえば、「だから王仁三郎は大ボラ吹きの大山師だ」と不快に思う人や仏教でいう弥勒菩薩を勝手に借りてきたと疑う人もあろう。たしかに王仁三郎が自分でいいだしたのならだ。しかしこれは出口直がおのれの意思とかかわりなく書かされたものだ。 この筆先がでた時、なろうことなら直は破り捨ててしまいたい衝動を感じたであろう。筆先を絶対と信じる直ゆえに「我」を折った。わが手で書いた筆先で改心させられたのである。直と王仁三郎の血みどろの火水の戦い。その相互審神の結果、王仁三郎にかかる坤の金神〈すさのおや小松林も含めて〉こそみろくの大神であると直の筆先は実証する。いわば大本的弁証法がここにみられる。 『霊界物語』「第七巻総説」では、出口直が王仁三郎の神格をみろくの大神と認識した大正五年の神島以後を見真実(真実を見る)に入ったといい、それ以前を未見真実(未だ真実を見ず)の境遇にあったとする。また別の観点に立てば、直に神格を認めさせたことで王仁三郎は顕真実(真実を顕わす)になったといい、まだ認めさせられなかった時代を未顕真実(未だ真実を顕わさず)という。 直が「見真実」の境域に達したのは、ようやく昇天の二年前であった。大本信仰的にいっても、王仁三郎の神格(肉体ではない)を天の大神と信じられない時点は未見真実の信仰であり、当然、見真実への飛躍が求められる。また見真実の信仰に入ったとしても、それを自分の内なる信仰にとどめて外に顕わさぬあいだは、やはり未顕真実の信仰といえよう。現在、大本教団の執行部諸氏は未見真実、未顕真実の信仰であるばかりか、王仁三郎の神格を、ひいては神島の筆先をも否定しようとしており、それが第三次事件をひきおこす要因となった。直の「見真実」により、大本の役員信者のあいだにどれだけの意識の変化があったかといえば、ほとんどその効果はあらわれていない。彼らは公然と直を「大神さま」と呼ぶ生神信仰にとらわれ、瑞霊(王仁三郎の霊)否定は王仁三郎の大本入り以来、常に教団内に根強く存在しつづけた。 大正六年一二月一九日、福島久が二人の信者と共に岩戸(金龍海の大八洲にあった幽斎修行場)で拝礼していると、久に弟出口清吉と称する霊がかかってきて物語り始める。清吉は台湾で軍隊を脱走して苦労のあげく、大正四年に誰にもみとられず外国で病死した。そこでこれより久にかかって、日の出神としての働きを示したいという。久は清吉と名乗る霊の言を信じて勇みたち「清吉の霊はいよいよ義理天上日の出神として自分の肉体におさまった」と宣言、「日の出神論」という筆先をあふれるように書き綴る。 その骨子の一つは、王仁三郎の霊は神代の昔、天地の規則を破った元凶のあまてるひこ (天照彦)であり、わかひめぎみ(出口直の霊)はあまてるひこの罪をおうて神代一代苦労させられた。だから王仁三郎を早く隠退させて三代直日の世にならぬと、水晶の世はこないという。久は直や王仁三郎夫婦にもそれを認めさせようとして、懸命に働きかける。出口直の三女であり二代澄の姉であるうえ、人一倍熱情的、シャーマン的な久の影響力は大きく、それが教団の中に隠然とした勢力を作ってゆく。 彼らは瑞霊封じをもって神業かのように確信する。王仁三郎は『物語』の中で、久の霊的働きを、ウラナイ教の教主高姫というユニークな人物の言動を通して活写している。 立替えに魅せられた浅野和三郎 大正四年暮、横須賀海軍機関学校の英語教官であり、英文学者として著名な浅野和三郎は、福島久と海軍予備機関中佐飯森正芳に出会っていらい、丹波の大本への興味をかき立てられた。二度綾部を訪ねて直や王仁三郎にあい、また横須賀の自宅に王仁三郎を招いて鎮魂帰神や筆先を研究し、ついにいっさいを精算して神の網に身をまかせる決意をした。大正五年一二月、一家を上げて綾部に移る。早速、王仁三郎の依頼で機関誌の主筆兼編集長を引き受けた。 浅野は旬刊『敷島新報』を『神霊界』と改題、紙面を通して立替え立直しを広く世に訴える。三千世界の立替え立直しの神約は大本に生命を吹きこみ、他教団との違いをきわ立たせる。これを忘れた大本ならば単なる一宗派に堕してしまい、存在意義は薄れる。しかしこの大予言はいわば両刃の剣で、ときとして鋭く大本自身を傷つけもした。 大本の歴史をふり返る時、慢心や筆先のとりちがいからくる役員信者の独走を制御しきれなかった苦い錯誤につきあたる。浅野和三郎もまた、立替えに魅せられて大本に入り、その真意をとりちがえて大本を刺し、みずからも傷ついた。浅野和三郎を迷わせたのは、『神霊界』大正六年七月号に掲載された「裏の神論」(直の表の神論に対して、玉仁三郎の筆先を裏の神論といった)である。「…今一度、変性女子の身魂を連れ出す土産に世界のことをあらまし書き残しておくから、大切にいたして保存しておくがよいぞよ。明治五〇年を真ん中として、前後一〇年が世の立替えの正念場であるぞよ。明治五五年の三月三日、五月五日はまことに結構な日であるから、それまでは大本の中はつらいぞよ」明治三七年七月一二日 筆先は一種の警告書であって、このままで世界が進めば泥海にかえるほかはない、そうなってはならぬから「神も人民も改心せよ」と訴えるのが主旨である以上、人民の改心いかんでは世の終末は回避できよう。ところが日露戦争の最中に出されたこの筆先は警告どころか、はっきり時期の指し示された予言ではないか。一九一二年度は明治四五年と大正元年にまたがるから、この年を二年と数えるか一年とするかで、明治五〇年は大正五年とも六年ともとれる。 その前後一〇年なら、立替えの初めは大正元年か二年、大本の基礎が固まった頃であり、明治から大正へと移り代わる境目である。立替えの完成は大正一〇年もしくは一一年。 大正一〇年といえば教祖八六歳、これ以上のびては、教祖生存中に立替えはできぬ。「三〇年で世を切り替えるぞよ」の筆先により、大本では三〇年をひとくぎりとして大きな変り目が訪れると信じられている。開教の明治二五年から三〇年がちょうど明治五五年。三月三日は立替えの決着の日であり、五月五日は立直しの完成の日ではあるまいか。 世界の現状を眺めまわしても、筆先の指摘通りに進行している。世をもつ神が態神であって、改心のできぬ国は次々上下にひっくり返っていく。「王天下は永うはつづかんぞよ。外国にはひどいことがせんぐりあると申して知らしたことが、実地になりてくるぞよ」と明治三六年に神はすでに宣言しているが、まさにそのとおり、清国の王天下がくつがえった。露国のロマノフ王朝は滅び去り革命は野火のごとく広がる。 目まぐるしく世界の小国は独立する。丹波の山奥にありながら、艮の金神の眼光は世界の隅々まで見通しなのだ。大地を打つ槌がはずれても、この立替えの時期だけは間違わぬ。これが浅野のえた結論であった。 それから半年たっても、王仁三郎は明治五五年立替え説について肯定も否定もしない。たまりかねて浅野がただすと、王仁三郎は「さあ、そういう考えもできますかなあ。何しろ神界の経論やから、わしには分かりませんなあ」ととぼけるだけだ。 浅野は態度をはっきりせぬ王仁三郎の立場を勝手におしはかる。大本の重要人物であり卓越した預言者王仁三郎がいったんそれを肯定すれば、すくなくとも信者間には確言としてまかりとおる。否定すればしたで、「筆先の預言を信じぬ外国魂」と反王仁三郎派のいっせい攻撃をくうであろう。王仁三郎の立場で立替えの時期を明かせぬとあれば、証文の出し遅れとならぬために、誰かがかわって発表せねばなるまい。それも教団の相当の役職者の一言でなければ証文の価