第三編 大本教団の変質

戦後のスタート

愛蕃苑の新発足  大本が「愛善苑」の名で新発足することは、敗戦の年の一二月八日事件解決奉告祭ですでに明らかにされていたが、これには旧日本のありかたへの深い反省から「古い殻をすべて投げすて名実のともなった大本に新生し、日本及び世界への良き鑑を出したい」という王仁三郎の深い意図がこめられていた。愛善苑の「苑」を「園」にしなかったのも、「園」には囲いがあるため、囲いのない「苑」の字を選ぶ配慮であった。  徹底的弾圧によって形あるものはすべて破壊され物質的な脱皮はできたが、肝要なのは心の殻を破ること。新時代の生きた宗教にふさわしい革新的発展をめざすにはどうすればよいのか。それを教えにてらして求めつつ、意欲的に愛善苑の設立準備が進められる。また綾部、亀岡両聖地の破壊のとり片づけと清掃が、信徒の奉仕によって行なわれる。昭和二一年四月には機関紙『愛善苑』が創刊され、発送の仕事に子供までかりだされた。熊野館では連日のように会合がひらかれ、少年の私は胸、おどらせてその力強いよみがえりを眺めていた。愛善苑の組織化が進み整備されていく中、王仁三郎と澄は山陰や紀州路へと巡教の旅をつづける。本部講師の地方派遣も積極的に行なわれ、宣教活動は各地で活発に進展した。新生へのいぶきは燃えるようなものがあり、愛善苑の主張は敗戦直後の荒廃した人心に明るい光を投げかけた。二一年の春から夏にかけて、王仁三郎は中矢田農園より更生車(自転車の横にほろをつけた車)で天恩郷に通い、月の輪台や瑞祥館の建築現場で陣頭指揮にあたる。八月一四日腹痛のため工事中の瑞祥館で静養、月の輪台の石垣積みの完了した二五日午後、更生車にゆられて熊野館に帰った。翌二六日朝少しふらつき、手洗いの帰りには側近に支えられた。脳出血の症状との診断。以後、絶対安静の日々がつづく。やがて小康状態に入り、一二月五日の夕刻、熊野館から完成したばかりの瑞祥館に移る。私にとって、祖父との同居生活がおわったのである。王仁三郎は半身不随の上、右足に神経痛を併発し、ほとんど臥床したままの日常になるが、性来の楽天的な性格はいっそうつのって、病室はいつも笑いと明るい雰囲気に包まれていた。二二年八月二七日(旧七月二一日)は王仁三郎数え七七歳、喜寿の誕生日である。年寄りくさい言葉をきらう彼のこと、「わしは三十三じゃ」といいはって喜寿としての慶祝を許さぬ。そこで「瑞生祭」と呼称し、盛大な祭典が月の輪台で執行された。四千人に及ぶ参列者は祭典後二列になって瑞祥館前の道を進み、縁側の安楽椅子にもたれる王仁三郎に庭をへだてて面会した。信者にとって、これが王仁三郎との最後の別れとなった。その時、私は終始、澄とともに王仁三郎の側にいた。感涙にむせび泣く人、両手をあわせる人々に笑顔で応える祖父。私はどれほど得意な気持でいたろう、病臥いらい一般の人が近づけぬ王仁三郎の側にいる。かつては王仁三郎の孫と知られるーことすらあれほど恐れたのに、いまは逆にそれを誇示して。二三年一月一八日朝八時頃、王仁三郎のいびきの異常さに医者が呼ばれ、再度の脳出血と診断される。昏陸状態であった。熊野館から天恩郷までの凍てつく道に自転車を走らせながら、私には祖父の危篤が現実のととのようには思えなかった。全国の各審議員、支部、連絡事務所には王仁三郎危篤の電報が打たれ、亀岡在住の信徒は道場に集合して熱烈な平癒祈願をする。その日の夕刻から深夜にかけて、急を聞いた丹波、京阪神地域の信徒が続々とつめかけ、月の輪台や道場の神前にぬかずいて、夜を徹してひたに祈る。翌一月一九日薄雪に大地が白く染められ、寒気のきびしい朝がきた。寝もやらず一族たちの見守る中、午前七時五五分、水が引くように静かに昇天する。生と死のけじめがこのようにわかちがたいものか。満七六歳六ヵ月の波乱の生涯であった。澄はみなりをあらため、王仁三郎の枕辺に両手をつき「みろくの大神さま、まことに永い問、ご苦労さまでした。これから私はあなたの後を継いで、立派にやらせていただきます。どうぞ安心下さいませ」と誓った。王仁三郎の死は道場に集まる信徒たちに発表されたが、たちまちおこる鳴咽の声にさからい、「ちがう、救世主が昇天するはずがない。嘘だ」「まだ神業は終っていないんだ。一時的な霊的現象に過ぎない。いま昇天を発表することは軽率だ、とり消してくれ」などと怒りの叫びがあがった。王仁三郎は必ず復活すると信じる者も少なくなかったのだ。私もまた理性では否定しながら、心の奥底に、もしやという思いがなかったとはいえない。それほど祖父の面はおだやかで、息づかぬのが、おかしいくらい清らかだったから。それでも復活の奇跡は起こらぬまま時が流れる。教団が茫然自失のこの時に、澄だけは胸を張って指図する。その通夜の席であった。廊下に出てゆきかけた澄は障子のところでふり返り、「めでためでたの若松さまよ」と唄いだした。誰もがあきれて息をのむのもかまわず、手拍子とって踊る。「お婿さんが亡くなったのに嫁さんが踊っていたら、よい気違いやといわれるやろなあ。けどめでたいというてはいかんのやけれど、ほんまはめでたいのやで」と澄は明かるく笑う。絶望にうちひしがれた信徒の心を少しでも光明へ向けかえようとする、澄の腹芸であったろう。私はどうかしていたのかこの前後の記憶がほとんどない。娘時代からの王仁三郎の側近であった山川日出子は「ご昇天の聖師さまの髪に櫛をあて始めた時、廊下で大きな泣き声がおこってね、二代さまがふり向かれて「誰やそこで泣くのは、---和明か。聖師さんがいなくても、ここにわしがいるやないか」と。そして泣いているみんなに叱るようにいわれました」と語る。通夜は一〇日間続いた。全国からかけつける信者たちへの別れのため、枢は蔽われなかった。日とともに俗塵を払って肌は鮮花色を加え、神々しくさえある。その遺体は土葬のため亀岡から墓地のある綾部に移さねばならない。当時の霊柩車は木炭車だから、峠続きの丹波の雪道の通行は無理、特別の霊枢車を造り、手でひいて徒歩で遷柩するほかはない。寒中、六0キロの難路である。一月二九日、午後一一時端祥館の霊前にで遷柩報告の儀が行なわれ三〇日午前一時、五六二キ口の重い霊枢車を引く隊列は参列者千数百人に見送られて出発する。霊柩車の綱をにぎる選抜奉仕者三三人は、われもわれもと綱を求める人々で一一二人になる。町をはずれても人々は去らず、開き伝えた信者が後を慕ってついてくる。道中の困難をいくら説得しても聞き入れず、老人や婦女子までが「途中で死んでも梅いはないいと」泣いて訴える。いつか行列は大きくふくれあがっていた。園部からはいよいよ雪の深い観音峠にかかる。係は声をからして明け方の汽車に乗るよう説得、大半はお供を断念したが、それでもなお四OO人の信者は隊列を去らぬ。幾つもの峠の踏破は困難をきわめ、すり切れたわらじや足袋はだしでの強行突破になる。まさに雪と泥との戦いであった。出迎えた綾部の町の人々は沿道をうずめて合掌し、「お帰りなさい」の叫びに悲しみのどよめきがわきおこった。夕方五時、彰徳験前に霊柩車到着。その模様は各紙で報道されたが、『朝日グラブ』では「喪服の山越え十八里」と題し大きく特集している。私は何足ものわらじをはきつぶしながら、霊柩車に従う長い長い列の先頭を歩き通した。一九歳の若い私だが、彰徳殿につくなりぷっ倒れて眠ってしまった。こみあげる悲しみの中にもこれで王仁三郎の呪縛から別れられるという思いがあった。大本愛善苑に改称王仁三郎の昇天によって出口澄が二代苑主に就任、迫力ある指導ぶりで教団の先頭に立つ。二四年一〇月二九日、「愛善苑」は「大本愛善苑」と改称する。澄が「大本」の名を用いることを望んだからという。だが今にして思えば、古い大本の殻をいっさい投げ捨て新生しようとした王仁三郎の理想から昔の大本へ復古しようとの兆しとはいえないだろうか。また主管者(宗政面の責任者)の名称が「委員長」から「総長」に改められ、初代総長に宇知麿が就任した。一二月八日、第二次事件で解散させられた人類愛善会の再発会式を行なう。 二代苑主澄の世界平和にかける情熱は激しく、人類愛善会初代総裁に就任、世界連邦をはじめとする平和運動に率先して参加する。大本が教団あげて世界連邦運動に取り組む姿勢を示したのは、大本の教えの中に共鳴する理念がふくまれているからだ。神論には「七王も八王も世界に王があるといつまでも口舌が絶えんから、一つの王で治まる仕組がしてあるぞよ」「お照しは一体、世界一つにおさまる経綸がいたしてあるぞよ」などとあり、王仁三郎も『道の栞』に「天に二つの日なきがごとし。地にも一つの王者でなければおさまらぬ」と示した。王を主権と理解した時、  一つの政府、一つの憲法、一つの世界こそが大本の目ざす理想だったのである。また当時の「世界連邦政府のための世界運動」のパッジが丸に十字であったことも大本の裏紋と一致し、王仁三郎の「世を救うみろくの神の標章は丸に十字の神定めなる」の歌と符号し、そとに神意を感じとってもいた。二五年六月九日人類愛養会創立二五周年記念式典の後、会長出口宇知麿は「国民の総力を結集して世界平和の大運動を起すことは、日本民族に与えられた唯一至高の聖なる使命である」とのべ世界平和運動の展開を強く訴えたが、それから半月後の六月二五日、朝鮮戦争が勃発する。八月二五日、亀岡天恩郷で人類愛善会主催の「世界連邦運動平和大会」を開催、全国から三千数百人の会員が参加する。この大会で、ジュネーブで行なわれる「第一回世界憲法人民代表者会議」に会長の出口宇知麿の派遣を決定した。人類愛善会は「世界憲法シカゴ草案」の全文を掲載した『人類愛善新聞特集号』を五六万七千部発行し、会員の一部売りによって人類愛善運動、世界連邦思想の啓蒙宣伝をするとともに、益金をもって代表の海外派遣費をまかなうことにした。澄は新聞をかかえてみずから街頭に立ち、また戸別訪問をするなど身をもって実践、その平和への思いは歌にあふれる。「かんながら信者の誠に胸うたれ 吾も今日より新聞売りにゆくみちとせの神の経輸のあけがらす世界平和の道はこの道戦争に入れるカを平和なる 道につくせばこの世天国無抵抗で 築く平和にあらざれば真の平和来たることなし国々の人の心が揃いたら この世はたちまち地上天国」一〇月一三日、人類愛善会の努力が実を結んで綾部市が世界連邦都市宣言を行ない、日本での第一号の名のりをあげた。王仁三郎亡きあとの教団は順風満帆でみろくの世へ向って歩んでいるかに見えたが、現実には二つの派閥が底を流れ、たがいに暗闘をくり返していた。教団の外にあった私にも肌で感じられたし、内情を知る信徒にとっては心痛の種であった。第三次大本事件を語ろうとすれば、この問題について避けることはできない。大本の裏面史は、いわば瑞霊派と反瑞霊派の護団の葛藤の歴史ともいえる。明治三二年に王仁三郎が綾部入りしてより今日まで、霊的因縁としかいいようがないほど、派を変え肉体を変え時代を越えて、その戦いは絶えることなくつづいた。反瑞霊派は開祖派と厳密にはわかちがたいし、直昇天後はその思いを三代直日夫婦に託していた。昭和六、七年頃から日出麿を擁立して王仁三郎に隠退を迫る運動がひそかに進められ、こと半ばで発覚して「日出麿に経綸がわかるか」と王仁三郎が激怒する事件がおこった。日出麿自身は存ぜぬことだったと思いたい。しかしこの前後から、王仁三郎に対する何らかの心境の変化があったのではないか。その後も日出麿をかついで北海道で一派を立てようという動きなどがあったと噂され、これらは大本秘史として語り継がれている。また直日は幼い頃からの開祖崇拝であり、直と同じ目で父母を見て育ち、性格的にも両親になじめないところがあった。特に王仁三郎のはねあがった行動が当局の誤解を招き、事件中、一族が苦労をさせられたという反感を胸にもっていた。王仁三郎は大正一三年一二月、『霊界物語』六七巻で自分の死後につき不気味な予言をしている。波切丸の船上、梅公宣伝使が「神仏無量寿経」を誦し、「瑞霊世を去りて後、聖道漸く減せば、蒼生諂偽(そうせいてんぎ)にして、復(また)衆悪を為し、五痛五焼還りて前の法のごとく久しきを経て、後転(うた)た劇烈なるべし。悉(ことごと)く説くべからず。吾はただ衆生一切のために略して此を一言うのみ。爾等各普く之を思い、転た相教務し聖教語を遵奉して敢て犯すことなかれ。ああ惟神霊幸倍坐世」と結ぶ。「私が死んだあと、正しい教えが次第にかえりみられなくなり、人々はへつらい、偽り、ともども悪をおこなうから、多くの不幸や苦しみがよみがえり、ときをへて激しくなる。いまはすべてを明かせず、これだけはいい残す。お前たちは肝に銘じて、ともに教えさとしあい、神のことば、教えを守って、道を違えぬようにせよ」というのだが、なんという悲痛な叫び、遺言か。王仁三郎の昇天後、反瑞霊派はいっせいに息を吹きかえす。そのあらわれの一つが楽天社の結成であろう。楽天社は芸術運動を中心にした結社で、昭和二四年一二月八日「大本楽天社発足声明記念祭典」を挙行し、翌二五年一月には総合芸術雑誌月刊『木の花』を創刊した。当初、楽天社は同人組織で、代表は出口虎雄、同人に出口直臼や出口栄二、日向良広、山本荻江らが名をつらねた。出口虎雄は旧姓田上、王仁三郎の二女梅野の二度目の夫だ。梅野は浅野正恭海箪中将の養子遥と大恋愛の末、大正一三年に結婚した。大本名を寿賀麿と名のり、大本の和歌や冠句の結社である明光社の社長として主に芸術面で活躍したが、女性問題で昭和九年に梅野と協議離婚している。第二次大本事件中、虎雄は男手を失った出口家に出入りし裁判闘争のために奉仕したが、いつか一〇歳年上の梅野と恋愛関係になる。しかし王仁三郎生存中は入籍を認められず、昇天二ヶ月後に出口姓を名のる。絵を良くし、やさしい人柄の芸術家肌の伯父である。日向良広もまた第二次大本事件中に出口家に出入りし直日と接近、なにくれとなくめんどうをみ、裁判闘争にも力をつくした。特に直日の長男京太郎の守り役であり、京太郎も日向を「おやじ」と呼んで慕っていた。だが王仁三郎も澄も日向の直日に対する強い影響力を好ましく思っていなかった。山本荻江も同じころから近づき、裁判関争に奉仕した一人、文学肌で美文をよくし、直日の秘書役をつとめた。人間としては、彼らはむしろ善良な人たちであった。事件中、主だった役員幹部たちは投獄されていたから、女子供ばかりの出口家留守宅では近寄ってくれる信者を頼らねばならなかったし、彼らもまた真剣につくしてくれた。男親と離されていた私の幼少年期、彼らをしたい、彼らが人目をしのんで姿を見せるとまとわりついたものである。彼らの事件解決につくしたまどころと功績に感謝している。彼らは当時まだ若き一信徒であり、王仁三郎や、澄と直接親しむ機会は少なかった。事件によって水晶の種といわれた直日に頼られ、子供らを守り、情が深まるにつれ、それに生きがいを感じてきたであろう。だが事件が解決し王仁三郎の指導の下に愛菩苑が発足すれば、中心になるのは獄中を耐えぬいてきた旧役員たちだ。直日と王仁三郎、澄との溶けがたいしこりは彼らも察知していた。王仁三郎の昇天で二代澄の世となったが、彼らは三代の世の招来を待望した。楽天社は、いわば三代擁立派の城であった。教団の表面に立つことをきらっていた直日が、『木の花』誌では「木の花歌壇」の選者をひきうけ、毎月、随筆「草の帖」を連載するという力の入れようである。三代直日は恵まれた芸術的素質と当代一流の導師を持ち、苦しい弾圧下にあっても強い意志をもってたゆまぬ精進を続けてきた。茶道、短歌、武道、書道、謡曲、能楽、陶芸、琴、鼓、絵、手織り:::『木の花』誌創刊号巻頭に、出口虎雄は「楽天社発足に当って」と題し、「理想世界建設運動の最も強い推進力となるのは芸術と宗教の精神だ。かつて出口聖師は『芸術と宗教は車の両輪』と示されたが、愛善苑の全会員は同時に楽天社の社友になり、芸術即生活、即神業の境地に進み、芸術と宗教の両面を心身におさめたとき、芸術と宗教の車の両輪は同一の大きさとなり、初めて神業は前進を開始することができる」とのべる。虫の良い論法ではないか。出口澄二代苑主が先頭に立って平和運動に一丸となって前進しているこの時、愛善苑の全会員が楽天社の社友になり、芸術を身におさめぬ限り神業は始まらないという。敗戦の傷手から立ちあがったものの、国民は生きるのにせいいっぱいの時代であり、それが反映して教団も貧しかった。会員たちは機関誌『海潮』を購読するのさえ楽ではない。二五年一月号の『海潮』〈五六頁)四O円に対し、『木の花』(三二頁〉は三O円、三ヵ月前納である。『木の花』の発刊は教団財政に影響する。だが彼らは猛然と社友の獲得にのり出し、各地に支社の設置を呼びかけた。『楽天社月報』同年八月号トップに「支社の設置三O八、社友五六七O名遂に達成、八月一九日午後零時五分現在」の見出しで、「目下、続々激増中で、瑞生大祭には六千名を遥かに突破しそうな情勢である」と報じる。二六年二月三日、直日は日出麿や家族とともに竹田から亀岡に移り住み、楽天社運動の強い後楯になった。貧しさを骨の髄まで知って育った澄が、芸ごとを身につけねば神業ができぬなどと思うはずはない。澄の晩年の心痛は、楽天社グループの反教団的動きであったといっても過言ではない二六年一二月一五日、澄は娘八重野たちをともない、静岡県吉原市における出口澄の歌碑除幕式にのぞんだ。途中から宇知麿も加わった。早稲田大学在学中の私は帰郷の途中静岡に下車、除幕式に参列した。祖母、父母と地方で合流してともに何日かをすごすなど、私にとって忘れえぬ最初で最後の体験であった。一七日には田子の浦に車を走らせ晴れわたる富士山を背景に記念写真を撮ったが、これが祖母といっしょに写した最後になり、また澄が地方で撮った最後の写真ともなる。二七年三月二八日、綾部では春の大祭につづいてみろく殿の上棟式が執行された。そのころ澄は面会謝絶の病臥中で、亀岡から綾部に思いをはせ「今ごろは餅をまいているやろなあ」とつぶやき、小声で棟上げの音頭を歌いだしたりした。翌二九日には「八百八光のほととぎす、声はすれども姿は見えぬ。金勝要神(大地の金神)はかげから守りておる」といい、これが辞世の歌になった。三月三一日午前八時二五分「二代の世は短いぞよ」の出口直の予予言通り、王仁三郎が昇天して四年余で、看護の人も気がつかぬほどの安らかさで昇天した。祖母の死を知らされた私は、とるものとりあえず自転車にとびのった。貞四郎家の玄関から、叔父があたふたとでてくる。その叔父を荷台にのせ、天恩郷へいそぐ。途中、本部から迎えにきた更生車に叔父をあずけた。心臓病は安静をつづけていれば治るものと聞かされていた。生前とかわらぬ死顔を初めてのようにつくづくみつめる。額中央高目にある小豆大の白いほくろが、仏像の眉間の白毫のように輝きだすかに思われた。「気をつよくひろく大きくこまやかにあたたかみある人になりたき」と歌う晩年の澄に「大地の母」という途方もない敬称をささげたのは、未信徒の詩人だったという。「大地の母」はいつか澄の代名詞のようになったが、彼女の風貌や素朴でいつくしみあふれる言動にふれた人々は、それがいかにも似つかわしく響いた。たしかに澄は、大地のご恩をくり返し説いた。「人はみな土よりいでて土に生き土の恩うけ土にかくるる/いっさいを生み出す土の神の恩知らずに送る人ぞうたでき/天の恩 知るとも地の恩知らざれば母を忘れしごとくなりけり/月のご恩、水のみめぐみ土の恩/さとりし平和の世とそ待たるる」王仁三郎は「書だけは澄にかなわん」と賞賛したが、澄の書に感動して入信した書家の稲村黄鶴を知って、澄は「東京の偉い書の先生がほめてくれた」と初めて自信をもつ。「かんながら下手な字を書く天下一」という、澄の書を見て、綾村担園は「天衣無縫、これほど体あたりした書を見出すことはできない。:::何と無造作な、無邪気な、かな文字遊びであろうか」と評す。澄の書は谷川徹三、棟方志功、北大路魯山人なども絶賛、近年海外にまでその名を高めているが、師について学んだものではさらさらなく、天性の人柄そのままの野の流露といえよう。三代の世になって大本に名称を復帰四月一日から「大本愛普苑」の名称を昔の「大本」に戻す。直日のたっての要望であった。文部省の認証をうけ施行の前日、澄が昇天したのである。直日が「苑主」ならぬ三代教主に、夫の日出麿が教主補になる。直日は「示されし道はひろらに明らけし なに今更に迷う人らぞ」「わが命 天知り給う残されし道一筋にふみゆかむのみ」と歌い、二代苑主昇天の衝撃に沈む役員信徒らに、出口直、王仁三郎の確立した道を進む決意を表明する。 しかし一方、『木の花』誌には「此教団に不平もつ人ら去りたまへ残れる清きが道を守らん」と宣言。「がき虫けらまでも救うぞよ」の筆先や清濁合せのむ王仁三郎、澄の教風をしりぞけて、みずから清しとする者だけの水晶教団を目ざすのである。楽天社グループにとって、わが世の春の到来だ。新総務の中に出口虎雄、日向良広の名が見える。日向は直日の側近として、すでに一信徒の域を越えるふるまいが、人々の目に余っていた。澄なきのちは、さえぎるもののないまま日向天皇といわれるほどの権力をふるうのである。二八年二月号『木の花』誌上に、直日は「あきたらぬ思ひ父母に抱きつつ 吾の一生も大方過ぎぬ」と歌うが、王仁三郎、澄との生き方の違い、それへの批判を胸に生きてきた苦悩を三代教主となったいま、信者たちの前にさらけだしている。だがあき足らぬ思いは直臼だけのものだったろうか。少しのまじりも許されぬ水晶のお種として仰がれ、育てられながら、初婚につまずき、二度目の夫日出麿も現界の頼りにはならず、身のまわりに仕える日向にいつしか心を移している。そんな娘の不幸をいたみつつ食い違っていく娘との距離に血を吐く苦しみをしたのは、澄ではなかったか。彼らにとっての次代のホープは、直日の長男出口京太郎であった。京太郎(幼名梓)は、大本事件直後の昭和一一年八月に生まれている。日向が育てたといっていい、目に入れても痛くないほど可愛い存在だ。彼には直日の長男である京太郎を大本の四代世継ぎにしたいという執念がある。それについてはさまざまな証言があり、私自身も幾度か目撃した。/『民族宗教研究』昭和五七年第一号の「戦後大本教団史の真相を語る」の座談会での出口昭弘(出口新衛の養子婿)の一言を引用しよう。「私の入信は戦後ですが、なんべんも二代さまが神がかり状態になられ、おっしゃられることがなんのことかわからなかった。朝拝に最前列にいると…はじめは静かに話していられるんですよ、それが神がかり状態になってどなりだされる。それがわからんで先輩に聞いたら、次の教主を男にしろといってくる者がある。大本の世継ぎは代々女だ、男は目的を持つ、よこしまな目的を持つからいかんのだという神示がでている、それをあえて仕組みが変ったということで男にせいといってくる奴がおる、そういうことを当時から聞いています。そして昨年『大福帳』(後述)というのを見るとそれが書いてあるわけです。:初めは京太郎氏が使われ利用されているんですね。それと、私自身はっきり思ったのは、私は戦後の入信でよく知らなかったが、ちっちゃな子供が天恩郷でさわいでいるんです。それが梓(あずさ)(京太郎の幼名)というんです。『この天恩郷はみんなおれのものだ』とわめいている。私はそれを見て、あのチビ何いってるんだ、妙なこといってるやないかと聞いたら、先輩が『あれは日向がいわしているんだ』という。『日向良広が京太郎を仕込んで、この大本はおれのものだと言わしているんだ』と聞いたんです。私は日向というのが、どんな男かも知らんし、その意味がわからんでね。そういうことがずっとあった。それで二代さまが『大福帳』にあるように、非常ないきどおりをもたれた。そういうことが何ぺんかあった」話題に出てくる『大福帳』というのは出口澄の日記で、昭和二一年から晩年にかけてとびとびに記されたもの。問題のところは昭和二二年(月不明)八日に記されている。「この神の世継ぎは女にきめてある。筆先に固く書き残してあるのに、この間来たる人の話、梓が世継ぎに仕組が変わりたとはそりゃ何を申すか。艮の金神さまのお筆先を何と思うておるか。これが天地の規則に決まりておるのじゃ、曲津めが。日出麿がああしてあるのは神からのことじゃぞ。こうしておかねばならぬことがあるのじゃぞよ。いま治りたらいかぬことがあるのじゃ。お筆先Kしっかりと記してあるが、この大本は代々女の世継ぎにきまりてあるのじゃぞよ。これを変えることはならぬのじゃぞよ。大本は七人の女の神さまが代々生まれてきて世を継ぐと、筆先にきめであるのじゃぞ。大本の仕組をひっくり返しにきてもあかんぞよ。そういうことを申すから、大神さまが先に決めていられたのである。仕組が変わったとは、どの神の指図であるか、申して出よ。馬鹿神めが、なんということを申すか、悪魔めが。万劫末代女に決まりておるぞ。ここには直美と申すしっかりした御世継ぎがあるぞ。教祖のお一言葉に『男の子は目的もの〈野心家)ができて神の仕組の邪魔をするから、天地の大神さまが決めなされたのである』と申されたのです。教祖さまの固いお言葉であります」『大福帳』〈原文すべて平がな)このとき京太郎はまだ一一歳であり、彼にまったく罪はない。だが周囲に「大本は長男であるあなたのものだ」とそそのかす者がいたことは彼の不幸であった。大本は誰のものでもない、神のものであり、全人類のものだ。教団を私物化する意識を幼いころから植えつけられて育った京太郎は、気の毒というほかはない。出口直の血筋に男の子は育たないといわれた。直、政五郎の間に男三人、女五人が生まれたが、長男竹蔵に出口家を継がせ、度は分家して大出口家〈教えを継ぐ側の出口家。本家の出口家と区別するための呼称〉をたて、末娘澄に二代を継がせる。王仁三郎、二代澄のあいだに男二人、女六人が生まれたが、二人の男の子はいずれも一〇ヵ月と満たずに死んでいる。三代直日、日出麿の間に女三人が生まれ、最後に京太郎が生まれた。四代直美、栄二の関に生まれたのは三人の女だけである。本来、なら五代になるべき直美の長女直子と信一のあいだ托は、現在、六代となるべき春日とその妹が生まれている。大出口家に生まれた一七人の子供のうち、男の子で育ったのは京太郎一人なのである。それだけに、京太郎の特殊な立場がわかる。王仁三郎、澄は今日の事態を予測し、のちの憂いを恐れて、昭和二〇年七月、京太郎を宇知麿の養子に入れている。だから戸籍上、一時期、京太郎は私の義弟になり、熊野館でともに暮らした。京太郎をかつぎあげるグループにとり、目の上の瘤は出口栄二の存在だ。栄二は四代直美の補佐という立場でしかも王仁三郎が選んだ婿、京太郎の教団内での権威は義兄栄二に及ばない。加えて大正八年生まれの栄二とは一七という年令差がある。当 初は栄二と京太郎の仲は悪くなかった。不仲の原因は、栄二が京太郎に「お前は出口家に生まれん方がよかった。何で生まれてきたんだろう」といったことによると伝えられる。昭和三二年頃には京都に京太郎を盟主と仰ぐ若松会というグループも結成される。こうして教団の中に栄二派、京太郎派の二つの派関ができ、次第に対立を深めていく。三代教主時代になっての大きな変化は、芸術の積極的な奨励である。奉仕者も何かの芸術、特に茶道と仕舞い、短歌ができなければ、肩身が狭くて、まともな奉仕者でないような扱いを受けた。勤務時間中ですら、芸術の稽古という理由なら、大いばりで時間を割くことが許されるようになった。これまで本部の中で開こえていた『物語』拝読や宣伝歌の声が鼓を打つ音や謡曲の声に代わっていく。地方の信者たちの誰もかも茶や謡曲を始めた。芸術即生活、それが神業であり、「みろくの世」の型を作ることと純粋に信じていた。私には異様な事態としか見えないが、それをどうしようもない程、直日の権威を後楯にした楽天社グループの力は強かった。そういう内部事情を抱えながらも、出口澄の遺志を継いで人類愛善会は順調に発展していた。特にカをつくしたのは「世界連邦都市宣言」の拡大であった。第一番目の綾部についで二七年、大本本部所在地の亀岡が、二九年、被爆地の広島市が五番目、三二年には京都市が五大都市のトップをきり四六番目の都市宣言をした。これらの過半は大本信徒の活動によって実現したものであった。二九年三月一自に行なわれたアメソカのビキニ環礁での水爆実験は、ふたたび世界の緊張をもたらした。大本、人類愛善会はいち早く死の灰の抗議に立ちあがり、四月五日には綾部のみろく殿に全国からの代表約三千人が参じ原水爆禁止人類愛善会緊急会員大会をひらき、「水爆等の製造ならびに実験の即時中止、原子力兵器の破棄、原子力の管理を国際平和機関に移す」を満場一致で宣言決議をする。大本、人類愛善会の原水爆反対署名運動は四月二五日より全国にさきがけてくりひろげられ、がて国民的な大運動に発展していく。  八月六日の広島原爆記念日には、大本、人類愛善会から寄せられた署名数は二〇八万八千余にのぼった。一般にはわが国の原水爆禁止運動は東京杉並区の家庭婦人らによって最初の口火が切られたとされているが、それは明らかに間違いである。杉並の署名運動は原水爆禁止杉並協議会が五月九日に結成されてのちの出発だが、そのころにはすでに大本、人類愛善会による署名はたけなわであり、日本で最初の、しかも全国的規模を持つ組織的運動だったことは、日本の平和運動史に特筆されてよい。私があえて強調するのは、この時点の大本は社会に先がけて歩みつづけており、現在の教団の大本らしからぬあり方と比較してほしいからである。出口栄ニ内閣の成立三三年四月、愛普苑発足以来教団代表の重責をになってきた宇知麿は、教団の刷新強化を願って総長辞任を申しでる。だが事実はそのようなきれいな交替劇ではなかった。宇知麿の常に中庸を考える教団運営のあり方が一部にうとんぜられ、特に楽天社グループや栄二派の暗躍を押えきれずに、いらざる摩擦をさけて身を引いたのだ。京太郎派は次期総長に出口虎雄をおしたが、宇知麿は「虎雄氏に総長を譲るのは筋が違う。栄二氏であれば、将来の勉強のために:::」ともらす。審議会議長嵯峨保二〈北国新聞社長)が中に入り、裡麿から栄二への円満交替が行なわれたのである。栄二新総長は人事も大幅に入れかえ、二期自には完全に自派で内閣をかためた。急激に変革を求めすぎて古くから教団に功績のあった幹部たちで窓際に追いやられる者が多く、大きなしこりを残す。栄二は情熱的であり、純粋な人柄だから、平和運動に一途に取組む。外部の評価は高く、特に平和国体から期待された。だがそれは逆に幅のなさ、偏狭さにもつながる。主観による敵味方の区別が潔癖すぎるのは、宗教者としての素質の美点でもあり欠点でもあろう。少なくとも彼の師事する清濁わせ呑んだ王仁三郎流のふとζろの深さを待ちあわせなかった。他は信頼できないから、綾部派という自分の子飼いだけで固める。へたに忠告をする者は排除していく。栄二派の中にも不満を持つ者があらわれると、世故にたけた京太郎が飴を持って手なづけ次々と自派に引きこむ。皮肉なことに、栄二が総長についたことで、そういう欠点が表面にあらわれ、両派のバランスが微妙に崩れはじめた。いわば栄二内閣は外政に成功したが、内政に失敗したといえよう。この新体制で変ったのは、王仁三郎よりも出口直への復帰願望である。八月の瑞生大祭(王仁三郎生誕祭)では、三代直日が「新方針の第一は開祖の精神に強く生きる』ことであります。このことは私が教主になりまして以来の強い念顕でありまして、私が常々開祖さまから受けとらしていただきましたことは、静かな中に折目正しい厳しさの溢れる、まことに端正な御風格でありますいと挨拶した。開祖大祭ならいざしらず、王仁三郎の生誕祭にことさらに直をしのび、開祖時代の教風に戻ろうとは、今から考えれば、教団の曲り角を暗示していたといえないだろうか。一〇月六日、綾部のみろく殿で開祖四〇周年大祭が執行された。翌七日は亀岡に移動、新築なった万祥殿で三代教主直日の五六歳七ヵ月の記念祭と万祥殿完成祝賀が行なわれ、天恩郷は喜びに満ちあふれた。『おほもと』誌昭和三三年一〇月号は、「教主五六七迎寿慶祝号」を組むが、それがおかしいとは誰もいわない。すでに述べたように、昭和三年三月三日は王仁三郎の満五六歳七ヵ月、みろくの顕現として現界的に活動に入ることを示す「みろく大祭」を行なったが、王仁三郎以外の誰であろうと、五六歳七カ月に特別の意味をもたすことは僭上の沙汰である。直日がみずから記念祭の執行を希望したとは私は信じない。生神信仰づくりのお繕立てにのせられて、大本式の還暦祝いぐらいにかるく考えたものであろう。だが問題は、このような祭典を開くことに対しての疑義が、父宇知麿をふくめてなぜでなかったか。それほど王仁三郎の教えがなおざりにされてきた証しになろう。三四年八月六日、栄二は人類愛善会会長も兼任、前会長宇知麿は名誉会長になる。大本開教七〇年と三代直自の還暦を迎える昭和三七年、信徒数も一二万三六三一人を数える。国際的緊張の切迫する中、原水爆禁止世界大会でのイデオロギー論争と政党レベルの主導権争いは平和国体の中にまで対立と混乱をまきおこす。その影響は大本にも及び、教団内部の派関争いがからみ、イデオ口ギー的にも平和路線をとる栄二派と安保賛成を表明する京太郎派との分裂を鋭くした。七月九日から一四日まで、世界平和評議会の呼びかけの「全般的軍縮と平和のための世界大会」がモスクワで開かれ、一二〇ヵ国から二千数百人が参集、人類愛善会は出口栄二会長を日本宗教者平和協議会の代表として送る。栄二は大の議長団に選出され、道徳に関する委員会では戦争の罪悪性の強調と不戦の世界的世論喚起を提案した。帰路は中国仏教協会に招かれ、周恩来総理を初め中国の有力者と懇談して宗教、文化面の交流をうながす意見を交換する。『人民日報』 は、周総理と一語る栄二の写真を大きく報道した。栄二が平和外交につとめている留守中、京太郎派は右翼系の政、財界人を直日のもとに送り、「このまま教団が平和路線をつっ走れば第三次大本事件は必至」と迫る。内事室長は出口虎雄で側近は京太郎派で占めていたから、面会者を選んで一方的な情報を直臼の耳に吹きこむことができた。二度の弾庄を体験した直日にとって事件ほど恐ろしいものはない。ついに直日は栄二更迭を決意する。その状態を知った広瀬静水が国際電話で栄二に帰国をうながす。八月一日、栄二が急いで帰国した時には、事態はどうにもならぬところまで追いつめられていた。教団はこの問題に関してゆれた。宇知麿が教主とのはざまにあって、どのようなかかわり方をしたか、私には分からない。機関誌『おほもと』は編集方針が定まらず発行が大幅におくれ、「八、九月合併号」 となった。そしてその巻頭に、三代直日の「私のねがい」が掲載され、大本を百八十度転換させる契機となる。「…現在、教団の一部の方の言動に、『大本がどういうところであるか』ということを忘れて本すじから逸脱した動きがあるとすれば、嘆かわしいことであります。私たちはいつも時流の渦巻きの上に立って生きることができ、それによってその時代を、神様のお光をいただいて指導してゆける道が与えられています。その道は右をも左をもこえた大道であります。したがって、大本の教えは、右によらず左によらず、右をも左をも平和の大道に活かしうるものでなければなりません。大本には大本としての平和運動のあり方が、あるのではないでしょうか。この大本は、平和への働きかけにおいても、わかりやすくいえば、このなかの人から平和な気持ちになってそれを世の中の人にうつしてゆけ、と示されているところです。そのためには、平和の心に反している自分の腹の中の掃除をしようという、暮しの中でのはげしい修行が、信仰的な精神が、たいせつであります。信仰的な自己反省や心の浄化をおろそかにして世間的な運動がやりたいのであれば、その方はここを出てから自分の信ずるものに挺身されてはとおもいます。その方が自己に忠実であり、また人間的にも純粋な行動ではないでしょうか。・:私たちのお道には、かつて昭和神聖会というのがありました。これは政治運動ではなく、当時における日本国家を対象とした精神運動でありましたが、私はこの運動に真向うから反対しました。というのは、それが精神運動であるといっても、政治運動のような形をおびる勢いをもっていたからです。私の危惧したように、社会の目は昭和神聖会を政治運動のような形でとらえました。そしてそのことが第二次大本事件をひきおこす大きな要因になりました。そのため「李下デ冠ヲ正サズ」、スモモの木の下で冠を正せば本人にその意志がなくてもスモモ盗人に第三者は見るというその意味を、私はいやというほど噛みしめさせられたものでした。大本事件は私たちに深い傷手を与えました。その時.に受けた生々しい傷痕は多くの人達の胸に残り、いまなお消え去ってはおりません。あの時代、製部さまが昭和神聖会をおとされたことはよって立上るべき根拠があったので、政治運動のような形を帯びて来たことは時代の宿命のようなものかも知れません。私が神聖運動に反対したのも、止むに止まれぬ気持からでありました。聖師さまにも私のその気持は理解していただきましたが、神聖運動が中止されるまでには至りませんでした。 私がいま、時流の渦にまきこまれないようにというのは、決して教団擁護のためにのみいっているのではありません。時流の渦に超越して本来の『大本』を明確にして大道に生きる道こそ、勇気と忍耐と最大の努力を必要とするのです。大本は今も神さまのあらたかな光の中に守護されているのです。この光を人々の心に点じることが私たちの使命であると思います。『みろくの世をつくる』という言葉をよく開かされますが、それはどこにつくるのでしょう。私は思います。自分の心の中に、人の心の中にみろくの世がつくれなくて、どうして『神さまがお示しになっているみろくの世』がつくれるでしょう。例えば一時的に富の平均を、おこなったところで、人間が心に、性格にもっているさまざまな姿は、やがて形の上に現われないではおきません。ちょっと子供の世界を見ても判ります。子供に一片のカステラをくばるとします。ある子供は手に受けとるとすぐ食べてしまい、ある子供はしばらく大切に持っています。社会というものは、そうした肉体的にも精神的にも個人差を持った人聞が集まって形成しているのです。それは、社会組織のうえにどのような時代がもたらされても、人間性の問題はのζります。組織機構の改造は大切なことですが、それだけでは解決できない人間のさまざまの悩みにこたえるものがなければ、人間はほんとうに仕合せになれないのです。大本はそうした根本的な人間の問題にこたえなければなりません。大本は、人々の心に神の愛と智を伝え、『みろくの世の人』を作らしていただくことを第一義にしています。このことが新しい世界の中枢にならないで、どうして世界が新しくなりえましょう。大本と使命を別にした分野には、それぞれの担い手があることでしょう。大本は大本の使命に生きなければなりません」この中で明らかなのは、平和運動からの撤退と、直日の反対にもかかわらず昭和神聖会運動をつづけた王仁三郎への反感、このままでは三たびおきるかも知れない第三次弾圧への恐怖である。一〇月九日、三代直日を抱えこんだ京太郎派の策動が成功し、栄二総長以下全総務の辞任と新役員の任命が決定される。総長を本部長と改称、新本部長に体制順応タイプの桜井重雄が就任する。さらに一一月三日の開祖大祭を期して、本部機構とそれにともなう新人事が発表された。改革の重大な要旨は、宇知麿以来教団の中心になっていた出口家及び教主身内のものは宗政面(宗教法人大本の代表役員、責任役員)からしりぞき、本部長に信徒の中から適任者が選ばれるととである。出口家の者が宗政聞の権力を握ればさらにその権威は倍加され、役員や信徒は強い意見もいえなくなる。だから信徒の適任者に宗政面をまかすのは英断だと、私は思う。だが栄二を総長から無傷で下ろすための改革であれば、妙にしらじらしい。この時点で立替えの立教精神はエネルギーをそがれ、大本は反権力への牙を抜かれてひたすら「脚下照顧」「下座の行」へと直日の好む禅宗的言葉で導かれ、内向の一途をたどる。教団管理化が進むとともに、平和活動からは大きく後退し、栄二派と目される人たちへの左遷人事が強行される。宗政から退いた出口家のために、祭教院が新設された。祭教院は斎司長と斎司をもって構成し、重要な祭祀の司宰、教義・教典の研鑽や大本の指導精神の確立を目的とした。斎司長には出口臼出麿、斎司には出口家ならびにそれにつながる者が任命された。一二月二八日の日出療の誕生日には「教主補出口日出麿先生斎司長御就任記念祭」が執行される。梅松館の建設失脚したとはいえ、栄二の教団内部への強い影響力は無視できない。彼がその立場を維持できるのは、出口直・王仁三郎、澄によって四代を約束されている直美の婿だからだ。京太郎が教団を完全に支配するためには、二度の大弾圧をくぐりぬけて築きあげた出口直、王仁三郎、澄の教風を薄める必要がある。信者を刺激するような否定はまずいが、それ以上の生神をつくりあげれば後はどうにでもなろう。それにはあつらえ向きの人物がいる。直日の夫であり、京太郎の父の日出麿だ。日出麿は看護の男たちをてこずらせるようなひところの狂態は鎮まったものの、今だに独りの世界にこもりきり、染筆と碁石並べに日を送っている。俗界を脱した境遇にあることが、かえって神秘感をそそる。霊異を求めたがる一部の信者には、熱狂的に崇拝されていた。信者としては教主の夫日出麿がいつまでも病状にあることは耐えられぬ思いであり、そこに何らかの神の摂理を見いだし、一時も早く全快し現界での神業の前面に立ってほしいと期待するのは、無理からぬことである。しかしそのような信徒の純粋な気持につけこみ、日出麿の不健全な状態を故意に神秘づけ、生神、救世神かのように俗じこませようとするのであれば言語道断であり、しかもそれがまがまがしい意図から工作されたとすれば、これほどの罪悪はない。日出麿をこのように生神に仕立て上げる動きは、楽天社グループによって、早くからひそかに行なわれていた。王仁三郎、二代澄生存中の愛善苑時代に、日出麿の名が活字になることはなかった。なぜなら、王仁三郎の隠退を策して瑞霊の経綸をさまたげた過去を「わしが許しても神が許されない」と、王仁三郎が深く嘆じていたからだ。狂乱の日出麿については、教団の名誉のためばかりでなく、彼自身のためにこそ、できればそっとしておきたかったのだ。前述の大福帳に澄が「…日出麿がああしてあるのは神からのことじゃぞ。こうしておかねばならぬことがあるのじゃぞよ。いま治りたらいかぬことがあるのじゃ」と書き残したのも、その意味である。 日出麿を表面に推し出すしかけは、『木の花誌』によって行われる。まず昭和二五年一O月号の表紙裏に「中川元男」の名で書が掲載された。「中川」は事件中、直日が短歌を作る時に使用していた姓である。さらに「或る日の遅〈日出麿の号)先生」と題して近影がグラビアに、そして俳句が顔をだす。まず教団の反応をうかがったということであろう。昭和ニ六年一月号から、出口元男の本名で、日出麿の旧稿が載る。こうして『木の花』を通して徐々に日出踏を浮上させながら、口コミによって日出麿生き神説を浸透させていく。二代澄昇天後の『木の花』は、王仁三郎、澄の教えを遠ざけ、日出麿の旧稿が教典かのように掲載されていく。三八年一二月二二日、綾部梅松苑の茶室春秋荘で、出口朝野(直日の戸籍名〉名義の綾部の土地処理に関する会議が開かれ、三代直日、四大直美、栄二、京太郎、虎雄、宇知麿の出口家、ほかに教団関係者三名が出席した。その会議記録から、発言内容の要点を抜粋する。京太郎 私は出口家の長男として生れた者ですから、それに相当する権利と財産をうけ継ぐべきだと思います。教主継承も財産の継議を意味するものと考えます。四代は直美姉さんであることは私もみとめますが、教主補は誰であるかきまっていません。栄二さんがなることについては反対です。血筋である私がなってよいと思います。私は今まで間違った生き方をしていませんから、出口のあと継ぎとして当然であると思います。直日 私の教主のあとを継ぐのは直美です。これは「大本の世継ぎは代々女である」ということが筆先にはっきりきめられていて動かすことのできないことです。それが大本の定めです。お母さんもその気がなかっても継がねばならなかったし、私もいやであると思った時代もありましたがこのことは継ぐべき者が、どうしても継がねばならぬことです。直美はどう考えているか知らないけれど…。また二代さまの時代には教主輔には聖師さまがなられ、私が教主になれば、日出麿が教主補であります。これも大本の歴代の流れとして、直美が教主になれば当然、栄二がなるべきものと思います。これからは直美が教主になる者としての心構え、また栄二にはいまではまだ不足に思う者も多いですから、二人ともその資格にかなうように修行し、成長してもらわねばなりません。おのづからそのようになってもらうことが一番良いことですし、そうなってもらいたいと思います。直美には、大本の定めとして気の毒と思っているほどです。直美 私はいやなどといったおぼえはありません。京太郎 私はどうなるのですか。邪魔者扱いにされてきています。直日 物心がつかないうちにあのようにしたことは({宇知麿家に入籍のこと)、当時の事情とはいえ、すまなかったと思っています。直美 お母さんが、どれだけ京太郎のことを心配されているか、できるだけのことはされています。お母さんの気持を察してあげねば気の毒ですし、私たち姉妹もずいぶん京太郎さんには遠慮して気を遣って来ています。直日 京太郎は出口家のあと継ぎです。二代さまが竹蔵さん(直の長男)に出口家のあと取りとしての備えを苦しい中でされてきたものですが、私も京太郎にはいつも特別に心がけていますし、今後もその考えです。京太郎 私は大本にいてはいけないのでしょうか。斎司や楽天社次長もみなやめて、外へ出なければならないのでしょうか。直日 私の京太郎に対する気持を浅くしか受けとらず、そのほかのこともですが、本当の深い配慮も知らずにいろいろと噂する人があるので、残念に思います。私はかねてから、京太郎には社会へでて自由に活動し、自分の力で道を切り聞かしたいと念願していました・この中で京太郎は、栄二が教主補になることに反対、自分が教主補になっても、おかしくないと表明し、直日は直美が四代教主継承者であり、栄二が教主補になるべきものだと明言している。また京太郎の「教主継承も財産の継承を意味するものと考えます」という発言は重大である。大本信徒にとって、神定により道統が継承されるのは信仰だが、京太郎には単なる財産権としかみえない。「私も京太郎にはいつも特別に心がけていますし、今後もその考えです」と直日は語っているが、まもなく「胸にひめていたねがい」となってあらわれる。「いま、ここに、わたしがひさしく胸の中に描いていた一つのねがいを、お伝えいたします。それは、わたくしが、神務と宗務をさしていただく朝陽館とは別に、その他の、わたくしの生活一切を、統一的に、機能的におこなわしていただく家をつくり、そこで、わたくしたち夫婦と、子どもたちとが、いっしょに暮らさしていただきたいことであります。大本は、これまで、この生成化育の神ごころをいただいて、多くの施設をつくらしていただきました。こんにち、教主としても日々の神務、宗務に仕えさしていただくに、不自由のない朝陽館をいただいています。けれども、ここに新しい周期に発展さしていただきたいとおもいます。たとえば、朝陽館は、あくまで教主としての公的の家であります。宗国の指導者が、公的な顔をもって私的の家とすることは、成長した教会では見られないところですし、社会は、公・私の別を要求しています。このたび、わたくしの願っています家を『梅松館』と名づけさしていただきました」こうして梅松館建設が中矢田の地で信者の多額の献金を受けてはじめられる。それと軌を一にしたように、『おほもと』三九年一月号、二月号に出口虎雄が「日の出の神」と題し、日出麿こそ日の出神だと主張する。また二月、大阪西区北掘江に本部直属の「なには別院」が開設され、別院長に京太郎が任命された。この「なには別院」が京太郎派の策謀の地となるのである。四O年七月、京太郎(三O歳〉は朝日新聞社より『エスペラント国周遊記』を発刊、教団あげての大頒布活動を行ない、いよいよ若きスターとして登場する。四一年三月七日、梅松館完成報告祭が万祥殿で執行される。でき上がった出口朝野名義の建物は、家の中に能舞台も茶室も工房もある延二八四坪〈一部二階)の豪華さである。伊藤栄蔵建設事務局長は、「私有物ということ、そこに私は非常に深い意味があると思うのです。私有財産というと、浅い考え方をしますと、私有ということはいけないんだ、この世の一切は神さまの物だから、すべて私のものなど持たないのが宗教家の理想であると普通考えがちなのですね。それをあえて公私を区別なさる。こちらは公的なもの、所有は教団である、こちらは私的なもの、出口直日個人の私有財産であり、これは都合によってどうしようとまったく個人の自由になさる、という。土地にしても建物にしても、まったく個人的な意味の財産をお持ちになるということは、従来の浅い考え方とは逆のことですね。それをあえてなさるところに、みろくの世の経綸のあり方の一面をお示しになっておられるのじゃないかと思うのです」と語るが、「三代さまのなさることならすべて絶対」の考えが、この奇妙な論理の中にもうかがえる。八月二二日、直日は京太郎一家とともに梅松館に移り住んだ。その朝、桜井本部長、岡野・森岡総務が朝陽館に日出麿を訪ね「梅松館完成おめでとうどざいます」と挨拶、つづいて出口虎雄、京太郎から「準備ができましたのでお移り願います」「お迎えの車がまいっておりますので、おでまし願います」日出麿は「わかりません。今の言葉は分りません。そういうふうな制約があったんですか」なお頼むと「行く気がしません」といった。九月一五日にも役員が梅松館を見てもらうように出むくと、日出麿は「梅松館、こまりますな」「行けませんなあ」とふたたびことわった。さらに一O月二O日も「行く気がしません」と三たび答え、朝陽館を出ない。 混乱に輪をかける梅松教会の設立四一年九月、講談社から日出麿の若い頃の信仰覚書を抄録した『生きがいの探究』が出版され、その大頒布こそ即大宣教であるとして、計画的なベストセラー作りが行なわれる。一一月七日、日出麿の全快を祈る籠解(こもりげ)祈念祭が亀岡の大本本部で執行された。京太郎派は今まで幾たびか「何年何月何日こそいよいよ日出麿先生がお立ちになる。御用するなら今のうちだ」と予言し、信者たちをひきずってきたのである。それが夫婦親子で暮らすと公言してつくりあげた梅松館への移転すら拒否されては、立つ瀬がない。しかし彼らはその責めを全人類の罪にたくみにすりかえて、京太郎派得意のデモンストレーションをおζなったのだ。「…教主補出口日出麿主、三O年の長き歳月、千座の置戸を負わせて大きな聖苦(なやみ)に耐え給いつつ、陰守護籠(しもびこも)らい神仙の堺に坐して、奇しびに玄妙(たえ)なる大神業に仕え給うこそ、げに畏き極みなれ…速やかに籠りを解きまして、天晴れ春陽の光りあまねく輝きわたるが如、報身みろくの救世の神業を遂げしめ給い…」と祝詞をあげ、祭典後の挨拶で桜井本部長は「籠解祈念祭は単に日出麿先生のお出ましを祈念するだけではない。全人類の罪を一身に引き受けられた先生に、ひたすらお詫びすることが大切である」と強調した。一二月には、教団から『日出麿先生小伝』が発刊される。四二年八月、本部長は森清秀に代わる。かつて栄二と同調した森はいつか離れて犬猿の仲になり、京太郎の腹心に転じていた。九月、京太郎の『巨人出口王仁三郎』〈略称巨人伝)が講談社から出版された。森新本部長の下に頒布推進委員会と同事務局が設置され、地方には機関長を中心に地方委員会を構成、書店からの一部買いの動員計画を立案するなど、細かい頒布宣教要綱が決められる。ポスター一万部を街頭に張り、『朝陽新聞』特集号外二七万部を作って全国に配る。京太郎は各地を巡回講演し、頒布活動に拍車をかける。まとめ買いを強制された信徒の各家庭にははけきれない本が積まれた。私は星田悦子〈福島久の心酔者〉の記したある出来事を思いださずにはいられない。大正七年四月三日、澄は男女の双児を生んだ。この日おりよく高砂支部から相生の松が献木された。一本の松の根元から二つに分かれ、雄松と雌松が生えていた。王仁三郎は双児の誕生記念に相生の松を金龍海正面に植え、男の子の名を相生、女の子は住之江と命名。八月二五日相生は腹をこわして看護のかいもなくにわかに昇天、五ヵ月に満たぬはかない命であった。この日、星田は日記に記す。「相生どの国かえは、親の身かわりなり。男の子はあとつけぬなり。お筆先の通りあいなり候。実にふしぎなり。先生(王仁三郎〉、奥どの〈澄〉、福島どの〈久〉、お龍どの(直四女〉、自分泣く。… (午後四時頃、福島久は別室に移り、ちょっと横になる)寝つく間もないのに、三〇前後の男が、頭も姿も定九郎をみるごとくの姿にてきた。『何者じゃ』と申すと気がつく。すぐ神殿にうかがえば、相生の成長した時の姿なり。(久の聞いた神託によれば〉『先生は相生をつれて隠居なさる。その後、知恵つけるものあり。ぼんち、ぼんちとあげられて、ついに謀叛もおこるし、また派が二つ、教えが二つになりゆく。親の改心のため身がわりにだしたのでありて、また相生殿はこれで三たびこの世へでたにつき、御魂は神と成りおさまるなり。めでたいことである。嘆くでない』と大神殿前にでご寧にお札を申しあげられた。ありがたいことであります。人民ではなかなかわかることではありません」定九郎とは歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」五段目に登場の人物で、百姓与市兵衛を殺し金を奪う。「先生が相生を連れて隠居」とは、王仁三郎が京太郎を宇知麿の戸籍にいれ、愛善苑は宇知麿ら幹部にまかせて悠々自適することをさすのではないか。まわりから「、ほんちぼんち」とおだてられて成長したのも事実だし、『巨人伝』によって教団の表面におどり出たのは数え三二歳。ついに謀叛がおこり、教団は二派に分れ教えが二つになると久は予言する。しかもそれを「めでたいことである」と喜ぶ。久は教団の分裂を望んでいたのだ。四三年一一月末、直日一家の側近として権力をふるい終始京太郎をもり立ててきた日向良広が、妾宅で急死した。四四年四月のみろく大祭の「教主ごあいさつ」が信徒をおどろかせた。「このたび、私の住んでおります梅松館を梅松教会として宗教法人にいたしましたことについて申し上げたいと存じます。私の生活の場であることに代わりはないのでございますが、法人のかたちにいたすことが適切であると考えられてきましたので、法人の手続きをいたした次第でございます」と。それにしても、ふしぎな話である。忘れもしない「公私の別を明らかにするために私的な家族との家を持ちたい」という直日の願いをかなえようと、信徒が真心をあつめ建設したものを。それが移り住んで二年半、どう気が変わられたか、直日みずからが公的な建物に、それも別の宗教法人にするといい出したのである。梅松館の建築費の大部分は信徒の募金でまかなわれたが、私邸建築費の寄付となると、莫大な税金がかかる。そこで表面上、信徒が教団に寄付し、その金を教団が直日に貸しつけたことにした。だから一定の金利は払わねばならない。むろん間固定資産税と維持費がかかる。宗教法人にすれば、所得税や固定資産税を払わなくてすむ。だがそんな理由を信者に発表できるわけはない。五月の第一七回大本総代会で教主の「一粒の種」というおかしな文章が朗読される。「…わたくしたちは、梅松館において、まことにつたなきことながら信ずる生活へとはげんでまいりまして二年有余、ここに素蓋鳴尊が熊野奇霊御木野命(くまのくしびみけぬのみこと)と、なりたまいし故事のように、このたび京太郎を教会長として『大本梅松教会』を生み、みろくの世への一粒の種をまかんといたすものであります」 税金対策がすさのおの権威をかたって、恥ずかしげもなく京太郎の神格化と見事にすり変えられてしまった。一粒の種とはそもそも一体なんのタネか。当時、内事室次長には税金対策にくわしいと自負する小林正雄がはぶりをきかしており、梅松教会設立には大きくかんでいる。能舞台をかかえたこれだけの私邸を建てればいかに税金がかかるか、計算できなかったとはいわさない。すべてが初めからの計画だったとすれば、大本の中に別の教団を生み出すためにしかけた巧妙な手品のタネではなかったか。当時、この手品のタネの作文は教主の秘書役山本荻江のものであり、教主の筆跡に似せた偽造で、教主は仕方なく事後承諾させられたとのもっぱらの噂であった。こうして宗教法人「大本」の中に被包括団体の宗教法人「梅松教会」なるものが設立された。この法人は信徒がおらず、教会長が京太郎で、彼の息のかかった大本の役員がほとんど梅松教会の役員を兼ねるという、突に奇妙な存在である。いらい、大本とは似て非なる、教義の独善的解釈にもとづいた大本もどきの教えが堂々と教団内に宣布されるようになる。いわば大本教団の中にできた癌細胞であり、「派が二つ、教えが二つ」のぶきみな福島久の予言そのまま、次第にふくれあがってゆく。十和田湖の神秘子供の頃の影響か、私はどうしても学校になじめない。早稲田大学文学部露文科に入学したが、まじめに単位をとったのは一年ぐらい、あとは劇団をつくって脚本、演出、役者と夢中になり、五年ほど籍をおいて中退した。すでに学生結婚をしていて、長男も生まれた。まともな就職などできなかった。新聞記者、貸本屋、喫茶居、レストラン、学生食堂経営などと転々と職を変えながら、私は意識的に大本教団の外を生きた。祖父が大本教祖の出口王仁三郎であり、父が初代総長という教団とのかかわりや出口一族の宿命から、遠ざかりたかったのだ。愛善苑発足時の高揚期、一時的に王仁三郎に誇りをもったが、それは暗がりからふいに陽だまりへ出たための過渡的な心境にすぎなかった。幼い胸に受けた大本事件の後遺症は深く、まだ抜けだせずにいた。それでいながら、夢の中でいつも王仁三郎を求めていた。あのコスモスの野を慕い追ったように、死んだはずの祖父が大またでもどってきて、そのあたたかい懐にむしゃぶりつくような夢をしばしば見た。三八年九月、私は第二回オール読物推理小説新人賞をえた。当時、名古屋の椙山女学園大学集団給食実習室主任であったが、生活的基盤は大学食堂経営の収入である。大学の休みは長い。暇をもてあまし仲間におだてられて初めて推理小説に挑戦、応募してみた。しめきり当日、食堂仲間たちが手わけして清書、読み直すまもなく投函したから受賞などまったく予期せぬことだった。題名「兇徒」ペンネームは野上竜、新興宗教団体を舞台の事件に描いたものだが、題材がユニークだったか、入選したのはラッキーというほかない。その証拠に選者の評を二分し同時入賞となった西村京太郎は今や売れっ子の推理作家であり、私は以後もあいかわらず学生の食事をつくっていた。そうやって好き勝手に生きながら、心の底で常に何かに追いたてられるものがあった。その原因も元をただせばやはり祖父王仁三郎にある。誰にうちあけようもなく、一人苦しむほかはない。昭和三年九月二二日樺太、北海道、東北宣教の旅の帰途、王仁三郎は十和田湖畔で泊まった。その夜半、十和田湖の龍神男装坊が地をふるわせ激しい嵐を呼びおこしてあらわれ、王仁三郎と神約をかわし上天したという。「数万年湖底に潜みし神霊の まさに世に出る時は来にけり/湖の主も生言霊に解脱して弥勤の神代に仕え奉らん/吾待ちし神の歓び祝せんと 天地一度に轟き渡れり/ 人の子と生まれ出でたるひと粒の 種に花咲く時は近めり/ 凡人の眼には見えねど神の代の 経綸は深し十和田の湖/その昔 変性男子の男装坊 変性女子を待てる十和田湖/湖の 主も今日を境に天かけり 弥勤の柱とやがて生れなん/時ならぬ雷鳴轟き地は震りて 龍神天に昇る今日かな」『東北日記』六巻その二年後の昭和五年八月一五日、私が生まれた。王仁三郎は筆をとって、『月鏡』に十和田湖の龍神伝説を童聞きおろし、「十和田湖の伝説は各方面に点在してすこぶる範囲は広いが、自分はすべての伝説にかかわらないで、神界の秘庫を開いて、ここに忌憚なく発表する」と述べる。神代の昔、すさのおが日の川上山で退治した八岐大蛇の霊魂がふたたび凝って秋田県の北沼の主となり、長くひそんでいた。この大蛇が赤吉に住む大日別当了観の姿に化し、その妻に産ませた子が、久内である。身魂蛇性のため天日を仰ぎ見ることができず、子孫は代々久内を名乗って、秋田県鹿角郡草木村に住んでいた。九代目久内の子八郎は大力無双で孝心深い。一八歳のある日、友三人と奥入瀬の十和田の奥へ樺の皮むきにいった。炊事係の彼は清流に遊ぶ岩魚三匹を捕って焼き、友の帰りを待つうち、匂いの芳しさにつられ友に残す分まで食べてしまった。のどが焼きつくように乾き、桶の水を飲みほすが、口は烈火の如く燃え立つ。清流に口をつけ、息もつかずに呑みつづけた。日没の頃には手も足も樽のように太り、目の色などすでにこの世のものではない。帰ってきた二人の友にわけを語り、「魔性になった自分は、もう寸時も水から離れられない。自分はここに潟をつくって主になる」と別れをつげた。八郎はなおも水を呑み続けること三四昼夜、一O口より流れ入る沢をせき止めて水をたたえ、二O余丈の大蛇になって水中深く沈んだ。とれが十和田湖の主の八郎である。年移り貞観元(八五九)年四月、京都綾小路関白藤原是実公は護者におとしいれられて、妻子や供の者一行三八人、都を後に放浪の旅に出る。やがて奥州路を踏破し気仙の問にたどりつくが、ことで是実は他界する。嫡子是行の代には家来も四散したが、夫妻は三戸郡仁賀村に一族の藤原式部とめぐり会い、ここを安往の地と定め、名を宗善と改めた。宗善の妻玉子は世継ぎの子を求めて霊験堂にこもるが、その満願の日、神人があらわれ「そなたの願いにまかせて一子を授けよう。だがその子は必ずみろくの出生を願わねばならぬ。夢々疑うな。吾は瑞の御霊すさのおの尊である」と、金扇を玉子に渡して消えた。玉子は身ごもり、月満ちて産まれたのは女子であった。夫婦は藤原家再興の夢が捨てられず、女子の名を南祖丸とつけ、男子として育てた。しかし誰いうとなく、女子が男装しているから「男装坊」と称えるようになった。南祖丸七歳の秋、母玉子は「弥勒出生を願え」と遺言して没した。宗善は妻亡き後、家名再興の望みを捨て、娘をこのまま変性男子として神仏に仕えさせようと、三戸郡五戸在七崎の観音別当永福寺の僧、月志方印に頼んで弟子とした。南祖丸は出家し、南僧坊として学問に励んだ。一三歳の春、南僧坊は母の遺言につき動かされ、一人寺を抜け出し紀伊国熊野に向った。熊野三社に参詣し、一心不乱にみろく出生を祈願する。満願の日の霊夢によって、諸国を行脚してすべての神仏に祈ろうと決意し、熊野を後に巡礼の旅に立つ。以後、南僧坊はみろく出生大願のため全国残るくまなく修行し、七六歳に至るまで六四年間ほとんど休みなく歩きつづけたが、熊野神社にぬかづくことは三三回に及んだ。その満願の夜、すさのおが三柱の神を従えてあらわれ、「その方はこのわらじをはき、この杖の向くままに山々峰々を回れ。このわらじの切れた所をその方の住家と思い、そこでみろく三会の神人の現われるのを待て」と告げる。吾に返って見れば、鉄のわらじと荊の杖が一本置かれている。思わず歓喜の涙にむせぶ。それからの十幾年、各地をめぐって道を説き病気になやむ者を救うなどして、ある山の頂上に登ってみれば広大な湖水が自の前に展開している。すると足にはいた鉄のわらじの緒がふっつりと切れ、錫杖が三段に折れてみるみる木の葉のように天に舞いあがり、湖に搭下した。南僧坊は「こここそが成仏の地か」と思い定める。これより南僧坊は湖畔の巨厳に登って七日七夜、天地神明に祈願をこらした。まさに入定しようとする持、湖商ににわかに荒波が立ちさわぎ、その中から踊りでたのは巨大な龍神八郎である。二本の角をふりたて耳まで裂けた口に白刃の牙をむきだし迫る八郎に、南僧坊は「三熊野大神の啓示によって吾が今日より湖の主となる。八郎よ、神意に逆らわず、おだやかに譲り渡して立ち去れ」と説きさとすが、耳をかさず襲いかかってきた。ぜひなく南僧坊は法術をもってたち向う。互いに秘術をつくして戦うこと、七日七夜に及んだ。やむをえずたなばた姫の霊力を乞えば、八郎は八頭一六腕の蛇体と変化して挑む。ふたたび七日七夜の不眠の戦いは、いつ勝負がつくともしれぬ。ついに南僧坊は「自分のために永く天地を騒がせまつるのはまことに畏れおおい。この上は神仏のカにすがるよりほかはない」と思い決し、『笈の中から神書一巻、神文一巻を取りだし、これをうやうやしく頭上にかかげて朝風になびかせると、神書神文の一字一字はのこらず弓箭となって抜けだし、八郎の全身に突きささって深傷をおわせた。ついに八郎はたまらず、十和田湖を逃げだす。八郎は永年、この付近の神々や鬼仙らを畏服させていたが、南僧坊に破れるや各地の神々に排斥され、ついに寒風山の蔭に逃れて湖を作り、永住の地とする。八郎潟である。「…かくて男装坊は三熊野三神わけて神すさのおの尊の神示によりてみろくの出現を待ちつつありしが、天運ここに循環して昭和三年の秋、四山の紅葉いまや錦を織らんとする頃、神すさのおの尊の神示によりてここに瑞の魂、十和田湖畔にきたり、みろく出現の神示を宣りせしより、男装坊は欣喜雀躍、風雨雷鳴地震を一度に起してその徴証を示しつつ、その英議は天に昇りたり。それより再び現界人の腹をかりて生れ、男性となりてみろく神政の神業に奉仕することとはなりぬ。ああ、神界の経綸の深遠にして広大なる、到底人心小智の窺知し得る限りにあらず。畏しとも畏き次第にこそ。神習霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)。附言、南僧坊現世に再生し、みろく神業を継承してときはにかきはに神代を樹立する経綸や出生の経緯についてはこと神秘に属し、まだ発表を許されざるものあるを遺憾とするものであります」『月鏡』「十和田湖の神秘」十和田湖龍神の再生とは誰か。生まれたばかりの赤子をさして、「それは和明だ」と王仁三郎がいったという噂が広がる。それを裏づけて、昭和一O年三月、王仁三郎は発表する。「月鏡、十和田湖の神秘を読んだ者は誰も知っている如く、湖の主が昇天の時、王仁に約束した言葉がある。『再生の時は大本に生れて参ります』と。…元来は王仁の子となって生れるはずであったが、それができなかったので、八重野が生ましてもらった和明がそれである。十和田の龍神の再生であるから、十和田の和をとり、明は日と月で神を表わすつもりでかく命名したのである。私をばかり慕って、父親はそっちのけで聖師さま聖師さまとつきまとう。霊の因縁は不思議なものである」『玉鏡』「男装坊の再生」戦後、教団はこれらの文献を意図的に伏せてきたが、古い信者なら周知のこと。だが勝手に「前生は龍神であった」と発表された私には迷惑この上ない。もちろん龍神の再生などという、おとぎ話を信じてはいなかった。たまたま生まれた男の私に白羽の矢がたったのであろう、ひどい祖父さんだと、長ずるにつけ恨んでもみた。王仁三郎が死んでも、その予言の呪縛からは逃れられない。いくら否定してみても、意識の端にからみついて離れない。世間では王仁三郎を大予言者という。だが十和田湖伝説にことよせて示した私に関する予言、いづれ私が王仁三郎を助けてみろくの世招来のために働くというそれ一つ見ても、彼の予言者としての力は疑わしい。大学も中退、とりたてた能力など何一つない私、ただその日を食うためにのみ働き、やたら子供をふやしただけ(すでに四男一女)。 そんな私に何ができよう。王仁三郎の予言がとりざたされるたびに、私は消え入りたい思いがした。私が存在することは、王仁三郎の予言がいかにでたらめであるかということの実地の証拠でしかないのだ。祖父をこよなく愛するが故に、それはつらい。外へ外へと道を選びつつも、私の心にやすらぎはなかった。亡き祖父のために、せめて私にできるものはないのか。いつも考えた。私に才能があるとすれば、どうやら文章を書く、ぐらいだ。王仁三郎を私なりの小説にして世間に発表してはどうか。当時の私は大本に対して不勉強であった。その思想も深くは知らなかったし、超能力の存在など信じきれなかった。それでも王仁三郎の人間的魅力だけは、この肌いっぱいに感じとっている。大衆小説の主人公としてならふさわしい。パフォーマンス好きの祖父のことだから、きっと喜んでくれよう。しかしその思いは、すぐ打ち消される。王仁三郎のあの幅広い行動力、スケールの大きな人間性、それが私程度の文章力で描けるものか。書かねばならぬという思いと描けるはずがないという思いが常に交錯し、私をさいなんだ。心の中の鬼が「書け、書け」と私をむち打つ。そうだ、王仁三郎は描けなくても、出口澄なら書けるかもしれない。素朴でいつくしみ深く、幼い特からの苦難の歩みにも寸分そこなわれぬ天性の明るさ、おおらかさ、女傑というよちも豪傑といった方が似つかわしく、思想も単純明快、行動範劉は広くない。祖母ならなんとかなりそうだ。四三年三月七日、私は名古屋から亀岡の大本本部を訪ねた。広場には数台のバスが止まっており、人々が乗りこんでいる。今から高熊山へ団体参拝するという。この日が直日の誕生日ととともに旧暦二月九日で奇しくも王仁三郊の高熊山修行七O周年と重なることを、このとき初めて知らされた。予定外の行動であったがとっさにバスに乗りこみ、空席を見つけて座った。すると隣席に『おほもと』の編集をしていた窪田英治が乗っている。私が訪ねようとする御本人だ。「実は…」と来訪の目的をのべかけると、窪田が先に口をきった。「ちょうどよかった。実は名古屋にお願いにあがろうとしていたのですよ」「ほう、なんでしょう」「今まで二代さま(出口澄)の伝記が大本にありません。それで和明さんに書いてもらえないかと思いましてね」私はあまりの偶然に言葉もでなかった。出口澄をヒロインとした『大地の母』が『おほもと』四三年六月号から連載され始めた。澄を書く以上、その母である出口直を避けて通れぬ。私の先入観では、直の人物像は封建道徳をそのまま地でいったような人。そういう女性は私の好みではない。できるだけさらっと流すつもりで、その出生から書きおこす。明治生まれの人たちを取材し文献の調べが進むにつれ、次第に直に対するイメージを改めさせられた。数回の連載で毎日新聞社から『大地の母』出版の話が舞いこむ。幾度かの交渉の結果、最終的には全一二巻書下し、三年で完結ということでまとまる。私にとっては、信じられぬ企画であった。一冊の単行本すら出していない無名の新人にこのような冒険をあえてさせようとは。一二巻ともなれば出口王仁三郎の存在とも真っ向から切り結ばねばならぬ。常識を超えた何ものかから強引に仕組まれ、引きずりこまれるのを感じた。 ことここに至っては背水の陣を敷かねばならない。平均二ヶ月半に一冊ずつ書下しで単行本を出していくとなると、兼業は不可能だ。それに名古屋から『大地の母』の舞台である丹波の地までしばしば取材に出向く物理的時間はない。四四年三月二五日、私は一家を上げて亀岡に移住し、父の住む熊野館の土蔵を書斎に執筆に専念した。この土蔵は王仁三郎が保釈出所後はじめて立てた建物で、子供の私らまでかり出されて地搗きをした壊かしい思い出がある。舟形をした田の帆柱にあたる部分に建てられたので、澄は土蔵を宝船に見立て、「わが屋敷 宝の船の形をなして 霧の海原に錨おろせり」と詠む。 大本教団、安保賛成を表明四四年七月一日、出口栄二に対し宣伝使剥奪と教学委員解任の処分が行なわれた。それは私の耳にも重大事件として届いたが、その真相は不明であった。当時特派宣伝使であった梅菌浩が任地の三河へおもむく挨拶のため朝陽館にゆくと、静岡から四人の信徒が来合わせていた。事件の真相を教主からじかに開くという。直日は梅園もふくめた五人を前に、四O分にわたって一気に語った。「このたびの栄二さんの宣伝使解住の原因は、栄二さんとある役員との喧嘩です。うちの子とよその子が喧嘩した時、親としてはうちの子を叱るしかありません。栄二さんはうちの子ですから、そこのところを理解して下さい。でも栄二さんは大事な人ですから、活字にしないようにといってあります。宣伝使解任というのはたいへんなことなのだと後で気がつき、その処置の取消しを綾部にいる直美にいいましたところ、直美は『朝に解任、タベに取消しでは、まさに朝令暮改のそしりを受け、教主の言葉があまりに軽くなります。私たち二人が辛抱すればよいのだから、そのままにしておいて下さい』 といってくれました。直美もおとなになりました」 栄二と喧嘩して直日にいいつけたよその子とは誰か直日は明かさなかったが、梅園は京太郎の代弁者の森本部長かと感じたという。四四年は学生による東大安田講堂封鎖を解除するため機動隊が導入されるなど、翌年の安保条約改定を前にゆれにゆれた。この年の瑞生大祭に私は執筆の寸暇をさいて参拝した。万祥殿前の檎付近で何種かのパンフレットが参拝者に配られている。私はそれを受けとって少なからぬ衝撃を感じた。それらはすべて安保賛成をうたった内容だ。大祭係員に「なぜこんな政治的なパンフの配布を止めないのか」と詰問すると、「京太郎さまの御命令なので」という。大本が急激に変わりつつあるのを、私は痛く感じた。京太郎が大阪の信者らを使ってこの挙に出たのには、それなりの根拠があった。教主は完全に一色に染められていたのである。たとえば一月ほど前の七月一一日、天恩郷の部課長と本部役員他四O余名は朝陽館で直日の教示を受ける。「…この間いろいろの本を見ますけどね、なんか自民党から出ているさかいなんて、見もせぬうちから批判する人があるんです。自民党が出そうが誰が出そうが、中の内容を見たら本当は本当なんですから、嘘も何もない、その本当のものですら自民党が出したからなんて見ようともせんこの事実をね、このへんあたりは何か妙なね、何かの思想に洗脳されてしまっていますんですね。…ですけれども来年の安保ということもございますでしょう。…安保をとってしまったらまるっきり、大阪城の内堀も外堀もとってしまわれたらしまいですもの、そういうふうな様子になりますものね。で、これは続けないといかんと思いますわね。今の時節には、大勢賛成のある方に、なんというのですか、政治というものが決まりますでしょ、支持者の多い方に。それですからやっぱり一人でも目ざめてきまして、今の大事な時、…いま、私たちは、教団は人数がすくのうても差しそえの種にならしていただいて、しっかりとした、来年の安保とかそういうことに付和雷同せんように、大本の中にもわりあいのんきな人がおられますからね。知らんまに洗脳されておられる人が…」政治に無関心な直日が突如変身をとげたのである。直日の言語感覚に洗脳という一言葉はなじまぬ。政治の宗教への介入が目立ち始めたとの時期、誰かに洗脳を受けたとしか思えぬ。「この間いろいろな本をみた」というが、ではどの本が直日に影響を与えたのか。この二月ほど前、天思郷では森本部長名で各部課長に『日本がもし共産化したら』(著者高谷覚蔵)の小冊子を配布、「現下の複雑なる国際情勢の中にあってこの小冊子はなんらかのご参考になるかと存じ、回覧する次第であります。部課長を初め部課員に通読む回覧されますようおとりはからい下さい」と一言葉をそえた。さらに「日本光明化宣教推進のための資料」として、『神の経論〈さしそえの種〉』のほかに『安保がわかる』『日本が共産化したら』国家興亡の岐路』という極端な右翼パンフレットを全国の各機関長に送付している。直日もまたこれらの本を読み、矢もたてもたまらぬ危機感を抱いたのであろう。八月号の『愛善苑』誌上では、直日は大学紛争をきびしく批判した後で、「七O年安保の問題も、理想は理想として、あくまでも現実の国際情勢に即して、現実的に、もっとも着実に」とのべ、また森本部長も「日本の安全を守るためには、どうしても、当分はこのまま安保体制を継続する以外に方法はないと思われます」と訴える。かつて「大本の教えは、右によらず、左によらず、右をも左をも平和の道に生かしうるものでなければなりません」と示して大本を逆転換させたのに、このような一方的な手段が「大本には大本としての平和運動のあり方」なのだろうか。京太郎が万祥殿前で配らせたパンフには檄文がつくはずだったが、それを知った直日は大阪地区の特派宣伝使を呼びつけ、さすがに「教団の中で、神風連のようなやり方は許しません」と止めたと伝えられる。瑞生大祭当日、教団本部は記者会見し「安保推進の趣旨徹底を全教団的にはかる」との基本見解を打ち出す。翌八日づけ『毎日新聞』は「宗教法人大本は明治二五年開教、現在は全国に千三百支部、三O万人の信者を持っている。設立以来一貫してヒューマニズムの立場から原水嬢実験反対、憲法改正反対など平和運動を展開してきたが、三七年原水爆運動が政治色を濃くしたとき転換をはかり、布教など内部活動一本に打ちこんできた。教派神道が安保堅持を打ち出したのは初めて」と報じた。一二月、教主継承者に四代直美が決定した。出生の時から四代を宿命づけられていたのに、ことさらに発表しなければならないほど京太郎派の策謀に追いこまれていたのだ。さらに斎司家を定め、代々にわたり神に仕え、大本の道統を守っていく家柄とした。斎可家の中から一人ずつ斎司が選ばれ、教主を補佐することになる。斎可家は次の九家、(〉内は斎司。出口直美(栄二)、出口京太郎〈京太郎)、出口梅野(虎雄)、出口八重野(宇知麿)、出口尚江〈尚江)、出口住之(新衛)、広瀬麻子(静水)、三諸聖子(斎)、出口操(光平)四四年九月から、大河小説『大地の母』全一二巻(出口和明著)が二ヵ月半の間隔をおき書下しで刊行された。教団が行なってきたベストセラー作りににがにがしい思いをしていた私は、できればこれを機に信徒に迷惑をかける悪習をやめてほしいと願った。だが出口直、王仁三郎、澄の生涯が小説化されることは初めてで、直日が作品の完成に力を入れていることもあり、順調な売れゆきをみせた。同年一O月、大本の芸術を紹介した『根源美の探求』(出口虎雄著〉が淡交社から刊行される。四五年一月、出口栄二著の『大本教事件』が三一書房から出版され初版三万部はただちに売り切れて重版、教団も全国機関長あてに本部長名で頒布を依頼した。さらに四月、栄二編集になる写真図説『民衆の宗教大本』が刊行される。そこで京太郎派は巻き返しに出た。鈴木本部長代務者名で、全国機関長に「大本教事件頒布について」なる文書が出される。「…さて、この本の内容につきましては、その叙述からみましていわゆる進歩的な考え方に立っている人々に理解させる上には適切な著書といえますが、読者の中にはこれまでの大本宣教から受けた印象とかなりへだたりを感じられ誤解を招く恐れもあると思われますので、この本をおすすめされる場合にはその点のど配慮をお願いいたしたいと存じます。また続いて発刊されました『民衆の宗教大本』についても同様な誤解を招くおそれのあるように認められますので、目下のところ本部としましでは特別に頒布のご依頼を申し上げておりません。なお同書に添えられているお色紙〈梅と松〉については、教主さまから『個人(監修者〉にさげたものであって推薦の意味をふくめたものでない』と承りましたので、とり違いなきようお願いいたします。追って両書が地方によってはご注文をまたずに届けられている向もあるようですが、もし売りさばきに困難を感じられご迷惑のようでしたら、残本は発送元に返送されるなど適宜の処置を講じていただきたいと存じます」本部絶対を信じこまされてきた信徒に対し、この通達はいわば「不買のすすめ」と等しい。こうして教団の言論弾圧はたくみに進められていく。 『大地の母』執筆にあたり、直日は「いっさい嘘はいけない。事実を曲げてはいけない。真実だけを書くのやで。大本のみぐるしいところも何も全部さらけ出しなさい。たとえ私のみにくい、汚いところがあっても、それも警かないといけません」ときびしく諭した。これだけのことをいえる教主が他にあるだろうかと、私は誇らしく、嬉しかった。また取材にあたって、こんなことをいわなくてもすませるものをと思うようなことまで、包まず教えてくれた。私はそれにカをえて、思いきって書くことができた。教団の言論統制のきびしい中で教団の隠された裏面史を発表できたのも、いわば直日の後押しがあったからである。また原稿の段階からくまなく目を通し、間違いがあれば教えてくれた。あの当時、私は直日一人が読者であってもいいという思い入れで書きつづけていた。四五年夏、『愛善苑』誌九月号に、出版なかばの『大地の母』の王仁三郎の青春について、直日は私に語っている。「聖師さまは感じやすいといえば感じやすい人ですね。私は冷たい入よりもああいう人が好きですね。品行方正の、冷たい賢い人は嫌いやけど、あんなの可愛いですね。弱いところがなあ。感じやすくて。私、『大地の母』読んでからちっとも聖師さまを嫌いや思いません。聖師さまのあの放埒なんか、ちっともおかしくないですよ。あれ悪いことでしょうかね。男子やったらやっぱり、聖師さまのようになるねえ。私、聖師さまのあの感じやすいところ、いいなあと思います。ああいう間違いだらけの失敗だらけのところ、何ともいえない聖師さまのよさがあるな思うて。『大地の母』読むまでそう聖師さまはあんまり好きと思わなかったけど、母ばっかり好きで、よう母ばっかり苦労させたといううらめしい気持ちをもっていたけどね、『大地の母』みて恕師さまが好きになったんよ。だまされやすいというか、一生懸命になって働いとって何かの時にクルッと投げられるでしょう。…『大地の母』みて、王仁三郎的という人の情におぼれやすい、そして思いきりのよいところに非常に親しみがもてる。理解ができたような気がします。田舎の人がいうでしょ、女好きということをもっときたない言葉で、あれいわれた時はいやな気がして王仁三郎を軽蔑しとったこともありましたけど、今はちっとも侮辱しませんわ。あの本読んだなら何とも可愛い人やなあと思うてます。父は喜んでいるでしょう、和明の、おかげで直日が見直してくれたというて。…私ね、ちょっと分ったのは、『七O年史』をちょっとめくっておってね、かわいそうやなあと思ったのが初めてです。そしてこんど『大地の母』みたら開祖さまより好きになりましたわ。あの男なあ、ヒョコタンというのですか、あんなでけそこないのような人、あんなの、女の人には可愛がられるでしょうね。」教主の立場でいながら、教祖王仁三郎について飾りけなく語るのが直日のすばらしさである。直日は王仁三郎がきらいで軽蔑していたとまっ正直にのべている。感性の異なる父と娘のことだからそうあってもおかしくはないが、問題は対等に、いや、それ以上の高い立場から王仁三郎をみていることだ。だが私は「大地の母を読んで父をみ直し、好きになった」という直日の言葉が涙が出るほど嬉しくて、直日が教祖王仁三郎を超えた立場にいるという教団の不幸を、深く洞察できなかった。 聖師聖誕百年瑞生大祭四六年は王仁三郎が生まれて百年にあたり、この年の瑞生大祭を特に「聖師聖誕百年瑞生大祭」と称した。『愛善苑』(以下『苑誌』)はこれを記念して「和明対談」を計画、一年間連載が決まる。『大地の母』執筆を通じて私の王仁三郎に対する考え方が信仰的なものに育っていたので、教団のお役に立つならと喜んでお引き受けし、第一回の対談相手に出口栄二を選んだ。一二回にわたってのテーマは王仁三郎の教えが中心となる。これは大きな反響を呼び、三代教主就任以来長く教えに遠ざかっていた信徒を改めて目ざめさすきっかけとなった。連載三、四回目から本部執行部による圧力がかかり、連載中止の働きかけがなされた。だが私は、中止するならその理由を『愛善苑誌』に公開するよう主張し、若い編集部員二人も圧力をはねのけ抵抗した。宇知麿も長老の立場で継続のために努力した。私が教団外部の人間であったために、執行部もさすがにそれ以上の無理おしはできなかった。私はこの対談を通して、王仁三郎聖誕百年の意義を訴えつづけた。これに反して執行部の意をうけた『おほもと』は全く無視し、その対象はあまりにも鮮やかであった。 二一回にわたる連載が終ると、みせしめが待っていた。それまで四〇ページ前後の『苑誌』を一度に二〇ページ前後に半減させ、抵抗した編集部員二人を左遷した。だがこの一年を通じ、心ある信者の胸に王仁三郎の灯がともったのだ。最後の対談を終った一O月三一日、日出麿は「和明対談」と揮号し、その写真が一二月号の巻頭を飾った。八月一六日、日出麿がついに朝陽館から梅松館に移った。だがその日のうちに「いやがる日出麿先生を暴力で連れていった」という噂が立つ。この日のいきさつを、出口虎雄は『おほもと』一二月号述べる。「八月一六日早朝、熱誠こめて・お移りをお願いしました。日出麿先生は『分りまへん』とおっしゃりながらも『これをあなたに上げます』といわれて側近に桃を手渡されます。やはりお移りを、お許しになっていると強く感じさせていただき、畏みつつ先生をお抱きさせていただき、朝揚館玄関までお供させていただきますと、きびしい霊交も次第におしずまりになり…」 事実はまるで違う。「畏みつつ先生を、お抱きさせていただき」の美文やら「霊交」の意味は何か。こばみ続ける日出麿を側近子が横抱きに抱え力づくで連れ出そうとした時、悲鳴をあげた日出麿が障子につかまったり柱にしがみついて離れぬのを、側近子がむりやり羽がいじめにし引っぱる。高齢のうえに体力のおとる日出麿が力つきて引きずられつつも、相手の顔に爪あとがくっきり残るほど引っかきむしったのだ。彼らは手とり足とり車におしこんで走り去った。早朝の悲鳴と怒号に驚いて飛びだしてきた数人の目撃者がいた。台所をあずかる女性奉仕者たちが泣きながら事実を訴えたのだ。すぐ箝口令がしかれたものの人の口に戸は立てられぬ。それをうち消すために事件後何ヵ月もたって、このような嘘で固めた苦しい文章を発表したのであろう。ここでいう側近子とは昇峯(のぼりたかし)、日出麿生神論の教義理論をでっち上げた張本人だ。京太郎初めその一派は先生としてあがめていた。「以心伝心的な境地で救世主日出麿先生の心を悟らしていただく」という妙な空気は、梅松教会を拠点としてますます強く広がり、若き梅松塾生の大半はその教化の元にあった。ではなぜそのようにしてまで日出踏を拉致する必要があったのか。梅松館建設の目的が、もともと日出麿と直日、京太郎一家の「神聖家族」がともに住むという触れこみであった。梅松教会では、何月何日にはお移りになると予言し、その度にはずれた。一方、聖師聖誕百年で信者たちは改めて王仁三郎の偉大さを慕いはじめている。日出麿を生神として信奉する梅松教会に臼出麿がいないでは格好がつかない。力づくでも移して予言をあてさせねばならぬ。ともあれこの日からの梅松教会では、「生神である日出麿先生が梅松教会にお移りになった以上、天恩郷や梅松苑(綾部)はもはやもぬけの殻で、梅松館こそ生き神のいる聖地だ」と宣伝した。その結巣、本部を素通りして梅松館参りをする信者が増え、梅松教会の月次祭の方がはるかに賑わい玉串も上がるという現象を生じる。製師聖誕百年のこの年九月、私は予定通り『大地の母』一二巻を完結した。力量不足の私が多くの人の援助をいただきそれをなしとげ得たこ とは、いま考えても奇跡としか思えない。切り捨てたい私の放浪の人生体験も執筆にあたって役立った。時代がたって絶対に知りえないと思えることさえ、せっぱつまると、あっと驚く貴重な情報が向うからとびこんでくる。世の中に理外の理のあることを認めざるをえなかった。書けなくなれば、真剣に祈ることをおぼえた。何よりも私を根本から立替えたのは、王仁三郎の思想の偉大さ、その裸の生きぎまに触れえたからにほかならない。私の心に描く王仁三郎像が、祖父から普遍名詞オニサブローへとかわっていった。この三年、『大地の母』の仕事は蔵にこもりきりで、非情にも子供らを寄せつけなかった。妻も仕事の手伝いに専念させた。子供たちは両親に会えない寂しさを、『大地の母』を読むことで補ったようだ。小学四年生であった四男までゲラの段階から読み始めた。三年かけて完結した時、私が変わったように、どの子も素直に神の存在を信じるように育っていた。有難かったと思っている。『大地の母』全一二巻の最初の構想は、出口直誕生の天保(一八三六)年から澄昇天の昭和二七〈一九五二〉年までの一一六年間の出口家三代の歴史であった。だが実際に執筆を始めるとあまりにも書かねばならぬことが多く、結果的には直昇天の大正七(一九一八)年で一二巻が終った。「あとがき」で私は「大正七年、出口直昇天以後の大本の二度の大弾圧から王仁三郎、澄の死に至るまでは、出し尽くしたエネルギーの蓄積を待って全く別な題名とあらたな構想で再び筆を起こしたいと思っている」と読者に約束する。父宇知麿が死病の端緒となった腸出血を始めたのは、私が家族を引きつれて亀岡に帰ってきた翌日の四四年三月二六日。S字結腸にできた腫瘍が原因の腸重積だった。六年八ヵ月の父の獄中生活をふくめてほとんどともに暮らすことのなかった私だが、まるで息子の帰郷とひきかえのような父の発病である。手術の結果、腫瘍は良性のポリープとのこと。回復は順調だ。私は安堵し蔵の中で執筆に没頭した。わがこと以上に、父は『大地の母』の進行を見守ってくれた。私が執筆に専念できたのも、子供らの世話をはじめあらゆる雑事や雑音の防御壁になってくれたおかげであった。執筆に死物狂いの年が明け年が暮れた。『大地の母』完結に笑みくずれんばかりの父であったが、同時に私は、再度の手術を宣告されている父の病状を開かねばならなかった。はたして癌である。父は忠実に医師の指示に従い、ワクチン療法に入った。 「生神信仰を正して下さい」四七年は大本開教八〇年、直日の古稀を迎える飛躍の年として、四月六日、梅松祭を行なうことになった。『おほもと』誌一月号掲載の「新春対談・水晶の世」の中で、直日は私に率直に心情を語った。和明 教主さまや日出麿先生への信者の考え方はいろいろあるわけですが、私が特に奇異に感じることは、お二人を神床にまつるような生神さまであるかのように、純粋に信じておられる方の多いことです。そういう信仰を、われわれはどう受け取らしていただけばよいのでしょう。教主 生神さまは私だけではありませんよ。心の持ち方、身の行いに高い低いはあっても皆さま全部が神の子、神の宮であって、生神さまです。私は昔から水品のたね、水晶の身魂といわれてきましたが、これも同じことで私だけではありません。皆さん全部の方が、この世をつくられた大神さまから直霊(なおひ)の魂をいただかれていて、水晶のたね、水晶の身魂です。…水晶のたねといい、木の花咲耶姫といい、神界のととは別にして、人間的にはずいぶん苦しみました。ちょっと人間的に考えてみてください。迷惑な話ですよ。〈笑い)。私の生まれない前から、私の知らないうちに決められているんですよ。「あなたはこの世に生まれられるそうですが、あなたはこういう身魂なんですよ」といって、お母さんのお腹の中から十分覚悟して生まれてきたのならよいのですけれど(笑い)。教団の長となるべく生まれついて、教主となっていますが、この世をつくられた生神さまと同じように思われてはいやですね。…このごろ開祖、製師、二代さまは三代教主さまと日出麿先生の出てこられるための「先ぶれ」のような方々であったと、信じている信者があるのです。つまり開教八O年の大本の中で、教主さま、日出麿先生が一番偉いという考え方です。重大な問題なのでそれについてお示し下さい。教主 その人たちの頭がどうかしているのではありませんか。何のためにそのようなことをいわねばならないのでしょうか。そんなことをいっているから、すこし物を考えている人は大本に入らないのです。…信仰の枇界では自分の教団の中心になる人をどこまでも誇りにしています。教祖、教主礼賛はどこの教団でもしていることであって、それはそれで結構なことです。でも大本の場合、開祖さま、聖師さまを礼賛するのと同じように、私らまで礼賛されたんではかないませんね。…私は開祖さま、聖師さまほど偉くないですよ。人間として何をして来たというのでしょう。どんな宗教の偉い教祖でも、天地をつくられた大神さまに祈るだけですよ。肉体をもったものは弱いものですよ。考えてごらんなさい。大本だけではなく、キリストでもお釈迦さんでも、みな大きなカに祈っておられるではありませんか。…水晶教団にしても、人にだけ水晶魂をおしつけて、何の努力もしないでタナからボタもちが落ちるように待っていてもだめです。私はもともと世の中というものは、それほどとっぴなものではないと思っています。空へ舞い上がるにしても細かい合理的な計算の上にできた飛行機に乗って上がります。いくら修行しても現実の肉体がさっと空へ上がっていくことはできません。それにも似た荒唐無稽なものを考えているとしたら、教団も発展するはずがありません。和明 教主、教主補さまは教団にとって、家庭の場合の父であり母であると私は思っていますが、宣教する人たちが教主さまのそういうお気持を理解せずに伝えられ信者さんに受け止められますと、教主さまを暖かくお慕いするというよりも、畏れ敬うという気持ちが強くなってくると思います。教主 そうですよおばすで山にいるように、たえられぬ寂しいことですよ。十和田湖の龍神伝説をになわされた私には、直日の苦衷が身にしみて理解できた。また大本の教えでは「人は神の子神の宮」であり、生神というならすべての人が生神である。私は、当時の教団情勢下にあって、教主の立場でこのようにいえる直日を立派だと尊敬した。この時、私は直日から「あなたが、信者さんたちの間違った生神信仰を正して下さい」とかさねて依頼された。教団の外にいながら、教主の依頼を果たすことが私の与えられた使命だと、固く心に決めた。だがこの対談は、過半数を占める京太郎派の信徒に、私に対する決定的な悪印象を与えた。「あのような質問をぶつけられて、私は生神だと答えられるものでない。和明が教主を生神の座から引きずり落とそうとした」というのである。まさしく梅松教会にとってはにがにがしい対談であった。梅松祭に奉納芸能として神劇を上演するととが企画され、教団は私に演出、脚本を依頼してきた。梅松祭の夜、亀岡会館において「天の岩戸開きひ闇と夜明けと」が二回にわたって上演され、直日初め二千六百人の信徒が観劇した。高天原を舞台に天の岩戸に隠れたあまてらす大神の心をいかにしてときほぐすかをめぐって、闇の世界で起伏する神々の苦悩をえがいたもの。この劇には、斎司全員、出口一族、森本部長はじめ教団役員ら九〇歳から四歳まで老幼あわせて総勢六O余名が出演、ともに同席すらこばんでいた栄二と京太郎も四代直美も共演した。父(予知麿も病体をおして舞台にのぼった。ほとんどの人が初舞台であり、演技に熱中して、この間は今までのわだかまりを捨て去った。こんなことは大本はじまって以来であり、このまま教団は和合し世界の型となって天の岩戸を開くきっかけにもと、舞台づくりの喜びに胸がおどった。だがいまにして思えば、このときが、消えようとする教団和合の最後の輝きであったのだろう。各紙はこれを報じたが、宗教専門紙2日『中外日報』は「編集手帳」でのべる。「…さる六日、おこなわれた大本の梅松祭で、作家出口和明氏創作の神話劇『天の岩戸開き』を観劇する機会があった。大河小説『大地の母』全一二巻を書きぬいた新鋭作家の手になるだけあって、『天の岩戸開き』は天のうずめの命のヌードダンスと天手力男命の怪腕力により関かれたといった通説は排され、八百万の神々の心の岩戸開きとそ天照大神の心を真安んぜしめるのだというユニークな解釈がとられていた。だからここでは天の安河原から追放された須佐之男命の粗暴な行為も、みずから悪神の仮面をかぶり万神の罪をあがなわんとする行為によみとられている。いろんな意味で神話の岩戸開きを現代的に、また宗教心理的な深みからとらえ直さんとする試みであった。この観劇で非常に興味をおぼえたのは、筋書のユニークさよりも演劇全体にみられる農村教団的な素朴な強烈な親和感であった。教主の古稀を祝うため出口家一族が総出演したといわれるほど教団の幹部がなんらかの役割をもち、信者の心のレベルと一枚になって懸命にそれぞれの役を演じつづけ、最後にはわれんばかりの拍手の中に総出演してフィナーレの歓喜をともにしていた。芸術的なレベル、演技、規模とかいった観点よりすれば創価学会の文化祭に格段のひらきを余儀なくされようが、文化祭とはまたまったく違った性格の娯楽性があふれでいて、宗教教団の生命の若々しさと素純さにこころよい共感をおぼえたのであった。そしてはたして概成教団にこのような教団全体の強烈な親和がみられるだろうか、たとえば大谷一族の人々が門信徒とともに演劇活動をおこなえるほどの共通の揚がどれだけ保たれているだろうか、を思ってみたりした。教団が上部構造と下部構造に分裂している間は、教団内に強い活力は生じにくい。つまり教団は情動的存在だといってよく、頂上と下部との密着、連絡こそが強烈な感動をよび、信仰共同体形成の血となるのである」 老の坂越えて死へのドライブ続『大地の母』を執筆するためには、私はなんらかの収入の道を立てる必要に迫られていた。国道に面した父名義の一反ほどの田をうめたて、四八年二月二日、ドライブイン「たんぱぢ」を開店した。その前日「たんばぢ」において、父の古稀を心からの喜びで祝うことができた。父はかつてないほど体重も増え、血色も良くなっていた。しかしそれが頂点であったのだ。二月一二日、父の顔色がへんに黄色いのに家族の者が気づいた。黄症(おうだん)だった。寝屋川病院院長の藤本夫妻がかけつけてくれた。院長夫人の三千恵は叔父出口三千麓の長女、私の親しい従妹である。院長の診断は、癌がすでに上腹部一杯に上がっていて腹水もあり、黄痘も重症だから、父の余命は早くて一ヵ月、いわば医者がサジを投げた状態だ。二八日、寝屋川病院に入院。一二月五日「今のうちにそれとなく会いたい人に会わせて下さい」と院長から注意。今のうちにとは、まだ意識があって痛みのこないうちにという意味だ。末期の癌患者の悲惨な苦しみようをつたえ聞く私は慄然とした。三月八日、教主より父に「大本教主補佐」の任命が下った。死期の迫った父にその大役がつとまるはずはなく、あきらかに顕彰的な意味あいをもつ。住命を知らせて病人に死期の近いことを感づかれはしまいかという懸念をおして、私はそのことを伝えた。父は病床に端座し、辞令をおしいただいた。一日も早く全快して使命を全うしたいと感激して語った。大正一三年春、若冠二一歳の身で二代、三代両教主補佐に任じられ、王仁三郎入蒙中の困難な教団をささえた父だ。昭和三年二月一日、三代直と日出麿との結婚を機にみずから教主補佐を辞任したが、それ以来の復職である。「伊佐男の伊は意を尽くすの意で、佐はたすけるということ。また聖師さまからも、内を丸く守れよとウチマルの名をいただいた。私は誠意をつくして教主、教主補さまをおたすけするために生まれてきた。あれから四五年たって今日の辞令をいただいたのだから、まだ私の時間が残っているものなら:::」とその夜、寝つけぬままに父は語る。院長は「半年も前から痛みがきているはずだ」というが、何よりの救いは一度も苦しみを訴えないことだった。聞くたびに「楽だよ」「いい気持だよ」。五月二日、直日が見舞いにくるとの報せに父は朝から髯をそらせ、寝巻を着かえ、身辺を正して待ちかねる。直日とあった父の目の輝きはまるで別人であった。翌三日も直日は見舞い父を慰める。夕方から昏睡状態に入る。父の乾ききった唇を、そっと綿花にしませた酒で拭く。「何でも好きなものを上げなさい」と院長からいわれていたからだ。ふくんだ酒がこくりとのどを通った。禁溶以来二年ぶりの酒である。「おいしい。…これはなに」と父が目をひらいた。伯母が嬉しそうに「お酒やないの、宇知麿さん」という。父は改まり、「私は病気ですから、お溜はやめました。御神水を…」。父はワクチン療法を選んだが、反対する人の言にも黙って耳を傾けた。しかし医師の指示はかたくななほど徹底的に実行した。「指示通り完全に守ってだめになったら仕方がないが、手を抜いてだめになって、そのため博士が悪くいわれては申しわけない」というのだ。 この場になっても、父はそれを守ろうとする。厳粛な思い広うたれて、私は酒を引いた。父は自をあけ日と時間をきく。「いよいよ最後のあれをいわなければなりませんか」昨日までの激しい生への希望から死の覚悟まで、その変身に数分とかからなかった。たちまち病室は近親者で身動きもできぬほどになる。父の遺言は低い途切れ勝ちの声ながら、一時間半にわたってつづいた。時には笑顔を浮かべ、冗談をいい、緊迫の病室に笑い声さえおこった。父は大本、人類愛会、世界連邦について語り、一人一人にお礼をいい挨拶をのベる。「ようやくお迎えがきたようです。(笑って〉もう少しこの世で御用があると思っていたが残念です。でも聖師さま、二代さまのお側へ行けて嬉しい。…私は大本の中をまとめようと努力したが、和明も私の心はわかっていてくれるだろうから、後を継いで私の遺志をはたすように。…私は幸せだった。:教主さま、日出麿さまにももう少し、お仕えさせていただきたかったが、補佐できなかったので申しわけなく思っています。…わしはまだまだ日があるかと思っていたので、十分お話しあいもできていなかった。けれど、もうそれは…」父の心配は、最後まで教団の二派の対立であったのだ。その夜、直日の伝伝言がとどく。「和明を祭司にして宇知麿の後をつがせるから、安心するようにと、それからこれは私に「梅松館の能舞台がきれいだから、そこで密葬してはどうか。遺体は直接、病院から梅松館へ運んでほしい」というお一言葉だと。深く考えもせず、私は直日の言葉をすべてそのまま伝えてしまった。こうなってはついでである。夕方本部の役員とうちあわせた通り、本葬は本部葬として死後一〇日目に天思郷で執行するとまで告げ、父の意見を開いた。黙って開いていた父は思わずふきだす。死にゆく者に葬式の相談をしかける息子はやはりおかしいに違いない。仕方なく私も笑い出し、しばらくはあたりに伝染した笑いの波がとまらない。「有難う、最高の栄誉です。何もかもいってくれて、あちらにいってからもくわしく報告できるよ…『たんぱぢ』ができてうちの台所広くなったようなものだから、告別式に集まった人たちにそこでおもてなしを」それからかたわらにいた西田婦長をかえりみて「私の葬式には婦長さんもきてくださいね」婦長は手をあわせて、「御本人さんから葬式の御招待を受けたのは初めてです」と泣き笑い。翌五日、「わしの着る白い着物、用意できているんだろう」「はい、立派なものが…お見せしましょうか」父がうなずく。新しい下着一式に羽二重の十曜の神絞つきの純白の着物と羽織、紋どんすのサヤガタの袴、足袋、白一溺…「豪華だね」と父は嬉しそう。紙一枚むだにしなかったつつましい父の、最初で最後の繋沢であったろう。私は、祝詞や賛美歌のほかに棺に入れる物を相談する。長年愛用の古びた父の時計。それなしではすまされぬ父の日常であったから。「時計はいらない。とこしえの世界へいくのだからな。霊界へは想念で持ってゆくから、棺の中には何も入れなくていい」これらは日常会話でもするように淡々とかわした。「最後はいつ、臨終はどこでするのか」自分に問いかけるような父のつぶやきである。刻々に黄昏が迫っていた。決然として父はいう。「今から亀岡へ帰りたい」「そんな…動くなんて無茶や」と誰かがささやく。「臨終は車の中でもいいんだよ」と父が軽くいった。私の心は喜びでふるえる。父がその覚悟なら、意思想念だけでも亀岡へ向けて死なせたい。まるで全快した人が退院するように活気づき、タンカで寝台車にかつぎこむ。生きたまま亀岡へ運ぶ自信など誰一人もてぬ、決死のドライブであった。空には鎌の刃先のように研ぎすまされた月が光っていた。事は震動が激しく父の頭は下に揺れ動く。その頭を、早くも車に酔った婦長が必死で文える。老の坂の曲りくねった峠を越え、一時間一五分後、直日ら多くの人たちが待ち受ける中、自宅へ安着一周した。「者の坂越えて…帰ってきたんだな。ここ 、わしの部屋?」かすんだ瞳で不思議そうに室内を見まわす。うず高く積まれていた書類や筆先の山が消え、父の城の面影さえない。「お筆先、どこ 御筆先は…」と父は身をもがく。「大丈夫、すぐ分かるように整理して押入れにしまってあります」「わしで、なければ…分からないメモがあるんだ」仕事へのすさまじい情熱。仕事が生命であった父のありのままの姿を見る思いがした。最後の御神水をのどに通してから、父の息づかいが静まった。「西へ向きを…手を胸に…すそ:…直して…」誰もが思わず顔見あわせて泣き笑い。人々の奏上する祝詞の波にのって、六日夕、父の魂は肉体のきずなを解き放って去ってゆく。生前の父は教団の実状についてまったく私に語らなかった。しのびがたい出来事も数あったはずである。だが人の批判一つ母も私も開かなかった。父の遺志によって私は教団につながれる身となるのだが、父の目を通して見たものは何もない。三代の世の和合と進展を願うあまり教主生神化の教理を組み立てた責任の一半は総長時代の字知麿にあると、今にして私は思う。しかし内側からそれを突き崩し、決して父のできなかった教主への反抗を犯してまで第三次にのめりこむ私を、父は分ってくれるに違いない。宇知麿の昇天を機に大本は大きく変貌する。父は栄二派、京太郎派の間に立ち、何とか和合させようと努力してきた。だがその努力は一面、それぞれにあきたらぬ思いを持たせたであろう。そして宇知麿という重石がとれたことで歯止めを失い、両派の対立の抑制がきかなぐなる。いわば父の死は主仁三郎が新生させた愛善苑の終駕であったかも知れぬ。