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第四編 第三次大本事件

大本海外作品展

四八年六月、私は大本祭教院斎司に任命される。父の死であまりにも心を揺さぶられたばかりに「和明を斎司にする」という直日と父の約束を裏切ることはできなかった。続『大地の母』の執筆を中断しても私なりに新しい使命に打ちこもうと覚悟した。教団内部に入った私は改めて驚かされた。執行部は完全に京太郎派に占められ、教主の周囲もまた同じで、教主の耳には他からの情報が入らぬ仕組みになっていた。ちょうどこの頃、祭教院では一つの問題に苦慮していた。京太郎の地盤である大阪本苑は宣伝使研修会参考資料として『剣』『ミカエル』の二冊を刊行、それがいろいろなルートを通じて全国に配布され、問い合せが次々と寄せられてきていた。両書とも『神論』「物語』、日出麿の著述その他から一部分を抜粋し註釈したものだが、明らかに日出麿を救世主に仕立てる意図をもってまとめている。引用も前後の文脈を無視して抜粋、読者を一方向へ導びこうとする。

だが本部執行部の後押しのある大阪本苑には祭教院の注意などどこ吹く風、ようやく祭教院は『おほもと』誌七月号に「教義の研鑽におもう」なる徳重教学委員の論文をのせて注意をうながし、さらに『苑誌』八月号に「教義、研鑽資料の頒布について」なる文章を教学委員会、教学研鎌所名で公示するにとどまった。

四九年八月、私は大本教学委員に新任される。教学委員会ではさぞ教学に関する深い議論がかわされるのであろうとの期待も空しくはずれた。京太郎派の教学委員は委員会をボイコットし、委員長の栄二を中心として京太郎対策と執行部に対する不満のはけ口のような場に化していた。私は委員会を教学を論ずる場にしてほしいと何度か進言したが、在任中一度もなかったように記憶する。

当時、全信徒の自ははなばなしい「大本海外作品展」〈以下海外展と略〉に奪われていた。「海外展」は王仁三郎、澄、直日、日出麿、直美の出口家五人の作胸、書画、織物の海外での展覧会だが、目玉は何といっても王仁三郎の耀碗だ。耀盤とは王仁三郎手造りの楽茶碗の称である。敗戦の色こい二〇年一月より、当時入手困難な土、割木、絵具、釉薬を工面し、腕の痛みに耐えつつも、あふれる魂の躍動を押えかねたように次々と楽茶碗を生む。二一年三月、一ニ六回目の窯をもって終ったが僅か一年余で三千個、焼き上がった楽茶碗は居あわせた者たちに惜しげもなく与えられた。それらのリッチな輝きが人々の自にふれ魂をゆさぶったのは王仁三郎昇天の後だ。耀碗顕現として「天国二八」が斯界の評論家加藤義一郎によって紹介され明日の茶碗とたたえられるや、その驚嘆は各界識者へと広がっていった。それらは地上に残そうとした王仁三郎の瑞々しい分身分霊なのかもしれない。

四七年一〇月から二ヵ月にわたるセルヌスキー美術館でのパリ展に始まり、フランス国土内のブザンソン、マルセイユ、ニース、カーン、ついでイギリスのロンドン、オランダの口ッテルダム、ベルギーのゲントと欧州各国で開催、さらに大西洋を渡りアメリカのニューヨーク、ブロックトン、ショトークワ、次にカナダのピクトリアの後、五O年一一月一七日から一ヵ月間のサンフランシスコ展と三年三ヵ月に渡る大ロングランだ。教主名代として京太郎、大本現地代表として出口虎雄、その他の係員が現地に長期滞在して海外展の準備にあたった。教団機関誌は京太郎札讃の記事でうめつくす。海外展は作品の展示だけではなく、献茶、舞雑司、八雲琴演奏、合気道演武などのアトラクションつきで教団経費だけでも莫大なものであろう。ニューヨーク展では大本式の祭典まで行なわれる。参

加者は教団方針に従って芸能を学んできた楽天社グループ中心の人たちだ。教団では海外展協賛行事の一環として訪欧団を組織、パリ展には出口家、本部関係係員、信徒ら一八八名が大挙してパリに渡る。ニューヨーク展では八O余名の訪米国、サンフランシスコ展には森本部長を団長とする「大本信徒、人類愛諮問会員奉仕団」一〇三名を派遣、各海外展の参加者は千余名に及ぶ。

海外展は大本と王仁三郎の名を海外に高めた点で貢献があり、そのために尽くした京太郎や虎雄の努力はたたえられてよい。だが開催の動機について後に真相を開かされ唖然とした。京太郎支配体制作りはなには別院において常にはかられていたが、京太郎はまだ若輩、業績としても『巨入出口王仁三郎』の出版だけでは物たりぬ。箔づけのため考え出されたのがアメリカ渡航。『海外展』のアイデアが加わり、それならアメリカよりも芸術の都パリでということになったという。海外展は実は教団あげての京太郎のための大デモンストレーションだったし、十二分にその効果はあったのである。

これまで直日の京太郎に対する目は曇っていなかった。たとえば京太郎が直日に向う時、人前でならなおのこと平ぐものように平伏する、そばにいる者がおそれいって居づらくなる程に。京太郎が去ると、直日は周囲の人にはばからずいう。「よう見ときなよ。心に何かある者はああいう態度をするのやで」

またある人が「京太郎さまが海外へお出かけになる御挨拶にきて下さいました」と報告すると、直日は「ああ、あれは銭別もらいですわな」とこともなげにいう。これが実の母かと驚くばかり。京太郎の人格に対する批判は酷しかった。同時に栄二と直日とも性格的になじまぬものがある。どちらの子にも肩入れできぬ直日の精神的な苦しみは、そばで見ていてお気の毒でならなかった。だが海外展が開催されると、京太郎の教団発展のための努力とその功績をたたえる情報だけが一方的に流れこむ。不肖の子と嘆いていた長男が変身し海外で大活擁していると聞かされれば、喜びは倍加する。母や叔母たちに、教主は海外展における華々しい京太郎の活揺ぶりを相好くずして語った。

海外展の成功に上のせして、京太郎派によるもう一つの工作が行なわれていた。京太郎に王仁三郎を襲名させようとする運動だ。神定によって男が教主になれぬとならば、それを超越する存在になればいい。大本においては出口王仁三郎だ。王仁三郎は開祖、二代と教主を立てながらも、実質的にはそれを超えた救世主として教団を運営してきた。いわば京太郎派の考え出したウルトラCだ。京太郎から何度も直日に王仁三郎襲名を懇請する国際電話がかかったが、さすがに直日はそれを押え「まだ襲名には年が若いから、五六歳になるまで待て」となだめたといわれる。

 

あわや危機一媛、神雷事件の真相

四九年一〇月、出口日出麿著『生きがいの探究』に続く『生きがいの創造』が講談社から発刊され、例によって大頒布活動がくり広げられる。

五〇年四月七日、綾部梅松苑における「みろく大祭」後の栄二の挨拶の中で将介石の死についてふれた部分がことさら問題化した。京太郎派は亜東親善協会長千葉三郎〈衆議院議員)や地方の右翼勢力を動かして教主を脅し栄二の解任を迫った。「装甲車数台で本部を占拠する」といったという。直日は苦悩し、六月五日、栄二ら九名の斎司全員、教学委員一六名全員を解任。「栄二一人を解任すれば事をかえって荒立てるから」ということらしい。『苑誌』七月号に公示されたが、その理由はいっさい発表されなかった。

教団の機構は大きく祭教と宗政にわけられる。祭教部門は祭教段、宗政部門は本部執行部が担当し頭と手足の関係にあった。勢力関係からいえば、栄二を祭教院長とする祭教院は栄二派、森清秀を本部長とする執行部が京太郎派の支配下にあり、執行部にとって祭教院は自の上のこぶであった。その機能を完全に麻簿させたのである。かりに栄二の挨拶の中に失言があったとしても、それが斎司、教学委員の全員解任になぜつながるのか全く不可解であり、直日はその重大性をどこまで認識していたか不明である。斎司、教学委員を失った結果は、平くも数日後に現われる。

六月七、八日の両日「世界連邦を二一世紀までに」の大会一テーマをかかげた第七回世界連邦平和促進宗教者亀岡大会が開催された。世界連邦宗教者委員会、大本、人類愛議会主催で全国の各宗教団体の代表約一三〇〇名が亀岡に参集、引きつづき九日には人類愛普会創立五〇周年祭典が午前九時から執行される。その前日の八日夜、直日から秘書の山本荻江に「明日の祭典に奏上する祝詞は、普の神言に戻したい」という指示があった。山本は内事室長出口虎雄に伝え、ともに教主の意向を聞く。

神言とは罪汚れをはらう大本の大祓祝詞だ。弾圧前の神事は神道の延喜式祝詞をそのまま奏上して我皇御孫(わがすめみま)の命(みこと)から「伊都の大神、美都の大神」にかわっているのが、根本的な相違である。直日の意向は、明日の祭典には神道関係者も多数参加する。その場で神名だけかわった延喜式と類似した祝詞を大本の神言として奏上するのは恥ずかしい。そとで「伊都の大神、美都の大神」を「我皇御孫の命」に変更したい。それも明日だけでなく以後は元の「神言」に、「天津祝詞」も昔に戻すというのである。

本来ならこのような重大問題は祭教院ではかられ、慎重に審議されねばならない。だがその機能を失っているため、植村総務部長、重楢大道場長らが朝陽館で協議、植村が電話で大国教学研鑽所長に相談、大国は「もう遅いから明朝に」という。翌九日朝緊急に総務会が開かれ、神言間題が論じられたが結論が出ず、ともかく教主の真意を開こうと山本に教主への面会を申し入れる。山本は「教主の意向をなぜ聞けぬか」となじったという。この時すでに植村の指示により天声社で神言冒頭の変更部分の第一回ゲラ刷ができ上がっていた。その一刷目のゲラは「大天主太神(もとつみおやすめおおかみ)」を「皇親神漏岐神漏美(すめらがむつかむろぎかむろみ)」に「伊都の大神、美都の大神」を「我皇御孫の命」に変えられていた。

もちろんこの時点で九時からの記念祭典に間に合うはずはなく、教主が天津祝詞を奏上した。午後の総務会は虎雄、山本も特別参加し、「教主の絶対命令を開け」という空気のもと、総務会全体が了承に向う。森本部長は積極的に賛成の意向を示した。虎雄の意見で、「我皐御孫の命」の「我」を抜き、さらに「すめみまのみこと」と平仮名にして印象をやわらげではどうかの提案が入れられ、早速印制に回される。すっかり手はずがととのい、一〇午後五時の夕拝から綾部、亀岡で変更祝詞が上げられることになった。私が新衛叔父から電話で聞かされたのは九日夜。深刻な事態に驚き、翌朝、祭司家の人たちを招集することにした。

宗教に関心のない人なら祝詞の神名を変えることの重大性が察しにくいであろう。カソリック信徒に「教皇の命令だからアラーの神を祈れ」、法華信徒に「なむあみだぶつと唱えよ」といったらどうだろう。拝む対象がかわるということは宗教がかわるにひとしい。いうまでもなく我皇御孫の命とは、あまてらす大神の孫ににぎの尊をさす。天皇家の祖神だ。戦時中、小学生でも暗唱させられた天孫降臨の詔勅はまだ耳にこびりついている。一方、伊都の大神、美都の大神は国祖艮の金神、坤の金神の厳瑞二霊の美称で、根源神のご方面の働きを示したものである。大本神話によれば、この地上をつくりかためた国組を艮と坤へ押しこめておいてこの世を支配してきたのが天皇家の神。このままでは世は泥海に返るほかはないから、明治二五年、天運循環して立替え立直しのため再出現したという。

戦前、大本の神言には確かに「我皐御孫の命」の神名が上げられていた。天皇制絶対の当時の国家体制の中ではやむをえなかったのだ。昭和一七年八月七日、王仁三郎が保釈出所して以来、戦時にもかかわらず「これからは『物語』六〇巻にのせた神言葉でないとみろくの世はこぬ」との王仁三郎の指示によって奏上されてきたのが、現在の神言である。二度の事件をくぐりぬけ、ようやく晴れて大本の神名を奏上できたのだ。それをこともあろうに三代教主絶対命令で再び封じこめ、押しこめた側の神を祈れとは。

一〇日朝、斎司家の人たち一八名〈栄二夫妻、京太郎家、三諸家は不参加〉が出口尚雄宅に参集、虎雄を招いて説明を求める。彼は「教主は昔から厳瑞の言葉がお嫌いであった。戦前に上げていたように、別に我皇御孫の命でもさしつかえあるまい。また信者に与える影響も考えて、祝詞には平仮名で表現しているから問題はない」という。皇御孫、なら天皇家の神とわかってまずいから平仮名でごまかそうとは、いう者もいう者、きく者もきく者ではないか。かっとした私の妻は「むごい拷問にも耐えぬいてきて大本の神に殉じた人たちに恥ずかしい。それでは明治二五年に始まった大本は今日で終るのですね」と叫ぶ。私や広瀬静水が神言改変の意味の重要性を説くと、参加者は理解した。だが事態はその日のタ拝五時に向って刻々と迫っている。この上は教主に直言するより方法はない。母八重

野、闘病中で安静を必要とする叔母の尚江、住之江も参加し、全員が天恩郷の朝陽館に移動する。

昼食抜きで何時間も待たされた。教主は昼寝中だという。午後二時頃になってようやく面会がかなう。教主は一同の顔ぶれを見て驚いたようだ。妹たち、孫の直子やお遊もいる。皆で挨拶にきたのかと初めはご機嫌であった。神言改変問題の重大さを直日はまったく理解もせず、驚くべきことに誰一人そのことを直日に進言する者はいなかったのだ。面会の理由を知って直日は高飛車にいう。「私は教義はきらいやで。いまは三代の世、私の思いどおりにしてよいやろ」それをおして、私は祝詞改変についての再考をお願いした。叔母も恵子やお遊や雅子たちも真剣に抗議した。棄などは「すめみまのみことは大本の神さまでないから拝めません」とまでいいきった。「あんたは拝まいでもよいで。けどみんなはついてくる。それが信者やで」と教主。教主の横にいた山本が祝詞改変の正当性を代弁した時、私は「今は斎司家の人たちの発言の場だ。あなたは黙りなさい」と思わずどなった。祝詞改変劇の根回しをした山本や虎雄を許せぬ気持があった。直日は「何もどならなくても」と顔色を変えたが、どうしても止めねばと夢中で弁じたてた。ついに直日は「そんなら好きなようにしなさい」と顔をこわばらせる。ただちに役員を呼び、直日の前で祝詞改変を中止するよう伝えた。

指令はとぶ。綾部のみろく殿、亀岡の万祥殿ではタ拝に間にあわそうと、大本祝詞の神名の上に片はしから「すめみまの命」の紙を張りつけていた。あやうくその封をとき、改変祝詞奏上を未然にくいとめる。しかし自のとどかぬ教主のひざもと朝陽館では「すめみまの命」の言霊が朝夕発せられ、それを知った私たちの抗議でようやく止められた。その日のうちに全国の京太郎派の有力信徒に「和明が教主に刃向った」と電話で伝えられ、いっそう彼らの憎しみを受けることになる。

この神言事件は直日には大変な衝撃だった。今までどんなことでも通してきた直日が初めて、それも身内の者から受けた造反である。直日は孤独だった。妹の梅野は脳溢血で倒れて会話ができず、八重野や住之江の家族はきびしく逆らったから、訪ねる気にはなれない。その点、尚江は家族と離れて一人で隠居所に住んでいる。直日は毎日のように尚江宅を訪ね寂しさをまぎらわした。「和明が怖かったからいうこ とを開いた」と尚江にもらしていたという。何日かたったある日、直日と私の間に溝のできるのを心配した尚江がそっと使いをよこし「いま直臼姉さんが来とってやから、騒がせたことをおわびしなさい」と伝える。私はすぐに尚江宅へいき、過激な発言を率直におわびした。固い表情の直日も次第にうちとけ、心の中を吐き出す。

「祝詞をかえたいというたのは、厳の身魂、瑞の身魂の神格を否定したわけやありません。でもその言葉が子供の時から嫌いで、今は神言のその部分になると黙っています。記念祭典には神宮の人もみえるし、その時、延喜式祝詞とあまりかわらぬ祝詞を大本の神言として上げると、なんだ、大本はと思われるのが恥ずかしかったのです。でもいま考えると、そんなにせっつく必要もなかった。祭典には何も神言を上げなくても天津祝詞でよかった。どの教団にも独善があり、大本が厳瑞二霊をたたえることは当然でしょう。だからそのための特別の祝詞を作ってもよい。側近にもう少し物の分った人がいてくれたら、こんな大事件にはならなかったのに」といい、斎司、教学委員の解任問題にもふれ「自分で自分の手足をもぎとったようなものや」としみじみ嘆いた。

直日がもう少し王仁三郎を理解していたら、延喜式祝詞と大本の神言の類似を恥ずかしいと思うことはなかったろう。王仁三郎は、すべてをものの見事に生かす再生術にたけた人であった。歌の世界には本歌取りという手法がある。和歌、連歌などで、先人の作品の用語、一詩句などを取り入れて作る手法だが、王仁三郎は本歌取りの名人であった。神言はいわば延喜式祝詞の本歌取りで、主語をかえることによりまったく意味が別になる。日本古来の言霊を大事にしながら、主語の転換によってものの見事に大本出現の意義を明らかにしたのであり、私は誇るべき神言葉だと思っている。この神言事件は教団の中ではまったく秘史に属し、まして活字になるのは初めてのことである。

 

昇峯(のぼりたかし)の離反

『苑誌』七月号には、五〇年五月一八日づけで「昇峯、願により本部奉仕を免ずる」と公示されている。昇峯は先にのべた日出麿拉致事件で活躍した側近であり、日出麿、直日、京太郎を神格化するための梅松教会の奇妙な教義理論をあみだした男だ。京太郎も人前では彼を「先生」と呼び、うやまってみせる。昇の人気は高まり梅松塾生たちも心服しはじめると、京太郎との間におもしろくない空気がわだかまる。昇の方も、日出麿救世主論を流布させながら自分は『巨人伝』や「海外展」で王仁三郎の名を利用、あげくは襲名まで執念をもやす京太郎に不信感をもちだした。昇は、京太郎が王仁三郎に対してと同じように日出麿もただ利用しているだけではないのかと疑い、二人の間の感情がこじれ出す。そのとろ京太郎は、息子が日出麿の『生きがいの探求』を読んでいるのをみて「そんなものを読んだら頭が、おかしくなるぞ、もっと学校の勉強をせい」と叱りとばし、本をとりあげた。外に向つては『生きがいの探求』はご神書だから読めと売りつけておいて息子には読ませないというのはおかしいと、昇が批判する。京太郎は昇を日出麿からひき離し、宣教部に送りこもうとした。昇は怒り、梅松塾生四人を引き連れて大本を飛び出し、亀岡に三五瑞祥教という新興宗教をたてた。その結果が「願により本部奉仕を免ずる」の公示になる。本来なら免職ものだが、昇を先生とあがめ師事してきた関係上、今さらそれはできなかったのだ。

昇が教団在職中、京太郎の師匠格としてふるまい、多くの昇信者をつくってきたのも、側近として日出麿の日常を判じ、染筆を解釈できる立場にあったからだ。独立するには日出麿をかつぎだす必要がある。彼は「日出麿先生はやがて梅松教会に愛想をつかして自分のところへ来られる。先生をお迎えする館の建設を急がねばならぬ」といって昇信者から金を出させ、昇御殿といわれる建物を亀岡市の三宅町に建設した。後には大本をまねて綾部にも館を作る。例によって「何月何日には日出麿先生がお移りになる」と予言、それもたび重ねてずれてくる。もちろん日出麿が自分の意志で移るはずはない。そこでかつて朝陽館から腕ずくで梅松館へ拉致したように、今度は梅松館から昇御殿にさらう計画をたてたようである。それに対抗し、京太郎は毎晩、親衛隊に寝ずの番をさせ、テレピカメラを

備えつけて警戒にこれつとめる。夏の宵、涼みにでも散歩すればたちまち警戒の網にひっかかるほど、それはものものしかった。

さすがに執行部も『苑誌』八月号には「日出麿先生の側近に奉仕していた昇峯氏は日出麿先生のご染筆やお言葉を自分なりに解読し、異説をとなえて信徒をまどわしている事実が判明しました。本部としては厳重に処分するとともに、他に波及しないようにつとめております。神意をうけて神業を遂行される教主、教主補さまのご意図は、教団を通じて執行されることは申すまでもありません。信徒各位はこのような非常識な言動に迷うことなく、教主、教主補さまを中心として、正しい信仰を保持されるよう望みます」と公示し、宣伝使を解任。昇が異説をとなえたというが、その異説をありがたがって全国信徒にまき散らしていたのは執行部自身である。祭教院が健在であれば、彼らもまたその責を間われねばならなかったろう。昇は日出麿拉致をあきらめると、信者をつなぎとめておくために

みずからが生神になっていく。

昇が去っても、彼の残した教学理論は重用され幅をきかせていた。一〇月、万祥殿で行なわれた正宣伝使研修会で、大石教務局長はすさのおがやまたの大蛇の尾から草なぎの太万をとりだしたという『古事記』「大蛇退治の段」を引用、「この草なぎの剣、ツムガリの太刀は日出麿先生のことです。日出麿先生を発明()される、とり立てられるということが聖師さまの一大神業で究極の目的であった。これによっていっさい、後は日出麿先生にお任せされたらいいわけですからね」と講義する。

大本をキリスト教にたとえれば、出口直はキリストの出現を予言し救世主たるの証しをしたヨハネであり、王仁三郎がキリストにあたる。ところが大石の説に従えば昭和三年に玉仁三郎が日出麿を娘婿に選んだことが一大神業であり究極の目的となる。王仁三郎の前半生は日出麿探しで、二〇年間の後半生は目的を達したあとの抜けがら同然となる。キリストを否定し、その弟子を救世主とするにひとしい暴論だ。個人の信仰なら自由だが、教務局長の立場で正宣伝使たちにこのような邪説を堂々と吹きこむ。しかも梅松教会の教義に長期にわたって洗脳されてきた信徒の大部分は、それを不思議とも思わぬ。これはまさに王仁三郎をふみにじる昇教学であり、それを異説として処分しながらこの始末だ。文句をつける祭教院がない今、何をいおうと勝手というわけだ。

 

京太郎総長の出現と言論弾症の強化

五一年の節分大祭の教主挨拶を直美が代続、「このよき日にのぞみ、厳瑞のみわざをつぐ教主、教主補のもとに京太郎を大事な役職につけたいと思っております。いずれ近い将来に、教団の機構をあらたにかんがえたいと思っております」と表明した。

前年六月の斎司、教学委員解任までの教主挨拶は教主の意向を聞き祭教院で慎重審議のうえ作成されていたが、この持点ではどこで作文されたかはよく分らない。直美はその挨拶文を一時間前に見せられた。少なくとも一日前には代読する直美に届けられるのが慣例であり、明らかに意図的である。直美は「出口京太郎を総長に」の一語に驚き、栄二とともに直日の意向をただした。直日は「総長といっても、栄二さんや宇知麿さんもやった番頭やで」と答えた。山本秘書を探したが姿を隠してあらわれない。祭典時間の切迫のままに、「総長に」を「大事な役織に」とぼかして代読された。

教主挨拶の意向を受けた大本総代会は教主の下に総長をおくことを承認、教則に「総.長は教主、教主補を補佐し、その旨を承けて宗務を総援する」の条項を付加し、三月一日、直日は京太郎を総長に任命する。直日の言葉による「出口家は宗政に関知せず」の昭和三七年以来の大原則は、同じ教主名よって破られたのだ。新総長による初めての総代会では、教則の改正が行なわれた。以前の総長は現在の本部長に該当するが、新総長は教主の「番頭やで」という言葉と大違い、本部長の上に君臨する専制君主的性格を有し、総長が間違いを犯してもその責任を関われる規定はなく、代表役員が負うしくみだ。祭教院は、旧則では「教主を補佐し、その諮問に答え、斎司会議を開いて教主の補佐に関する重要事項を審議する」重要な役割だったが、新則では「大本の祭儀に関する事項を研鎖審議する」

だけの無力な機関になり、その人事すらも「教主が総長及び総局に諮って任命する」ことになり、総長が祭教院人事に強く干渉できるようになった。栄二は祭教院長に、前斎司もそのまま再任され一年二ヵ月ぶりの復活とはなったが、実際は教団のいかなる審議にも影響を与えることのできぬサロンにすぎず、京太郎は祭教権、宗政権をほしいままとする。

京太郎総長による文化講演会「出口王仁三郎の世界未来予測」は昭和五二年四月の福岡市を皮切りに翌年五月の和歌山県田辺市で終る。『苑誌』は全部で一ニ〇会場、聴衆四万名と伝えるから一会場平均一三〇〇名強になる。講演会でこれほどの聴衆を集める開催地の地方機関は大変だ。何台もの大型バスをチャーターして会場までの送迎に利用したり、セスナ機、宣伝カーなど空陸の広報手段を活用し、また地元のテレビ、新開などで広告したり、かつてない宣伝活動を強いられた。それがいかに異常なものであったかは、『いづとみづ』誌六号〈昭和五五年九月)の「読者の声」でうかがえる。

「総長の地方講演会がやっと鳴りをひそめたので、地方の信者さん方は正直な所、ほっとしていられるに違いありません。大体バスの経費は出さねばならず、弁当を作って聴講者を集め、バスの中ではお客に酒までふるまっての人集めに、全国各地で信者はどれほどの金とひまをつかったか知っておられるでしょうか。やれどこ本苑が何千人集めた、どこの地方がどれだけ人が寄ったといいますが、地方の責任ある方は本部にも顔を立てねばならず、ほんとに苦汁をのむ思いのところもあったでしょう。私らの地方の講演会は雨の激しく降りしきる時でした。なるほど努力のかいあって、千数百名の人がよりました。:総長の話の内容たるや何でしょうか。どこに感銘をうけたでしょうか。立板に水、三時間あまりの問に数百人が席をけって帰ってしまいました。その後の反響たるや、愛善新聞の購読者一人でもふえたようなことも聞きません。…総長の地方講演はもうコリゴリです」愛知・K

「出口王仁三郎の未来像など総長が地方講演をするが、これは本部から地方へ強制的に割り当てし、しかも『武芸に富んだ屈強の青年を六名、常に総長の身辺護衛のため専任せよ』『自動車で地方出張のさいにはかならず先駆、後駆の護衛者を配置せよ』など、まったく意識過剰、時代離れがはなはだしく、地元信者は彼の精神状態を疑っている。と同時に彼はよほど何ものかに怯えねばならぬことをしでかしているのか。もっとも朴大統領の例もあるにはあるが。それにしても一発や二発だまってうけるだけの余裕がないものか。それがいやなら足を鍛錬して、一日散に逃げることをおすすめする。護衛とかボディガードなど、大本信徒として品位のさがることはおやめなさい。あなたの祖父母さまのご生涯を直孫の一人として学ばれることです」京都・一信徒

一方、教団内部での言論弾圧が激しくなる。『大本教学』第一七号は五三年七月、大本教学研鑽所によって発行された。同書は万教同様シンポジュウムの特集で五一八頁に及ぶ部厚い本だが、執行部の強い圧力によりついに読者の手に配布されることはなかった。その理由は発表されぬが、出口栄二の名が大きくあつかわれ、京太郎の名が小さかったという他愛ないものだといわれる。

同年九月、人類愛善新聞社より『大地の母』を原作とした劇画『オリオンの星』 第一巻を発刊、第二巻は翌五四年三月、つづいて五、六巻の予定で順次出版されると社告された。大本信徒の子供たちにとって初めて絵でみる王仁三郎の伝記だ。二巻の刊行を待ちわびる声がしきりに寄せられた。愛善会は経済的に苦しく、劇画の売れ行きはその意味でも期待された。

九月末、私は光書房から吋出口直、王仁三郎の予言確言』という本を出版した。出版元から『おほもと誌』『苑誌』に広告の掲載を甲しこんでも拒否される。本部執行部は京太郎以外の本を出すことを好まなかった。巻末に王仁三郎の有栖川宮熾仁親王落胤説を付記しておいたのが、理由の一つとされたらしい。一一月三日の秋の大祭における教主挨拶の最後は、「さいきん、聖師さまのご出生について、小説的推測が伝わっていますが、明治初期の、まさしく貧しい農夫婦の長男であることに、聖師さまの、また白梅そのもののお姿がしのばれて、誇り高くおもうものでございます」の言葉で結ばれた。どうにでもとれる文章であり、むしろ直日の苦しい立場に同情した。

直日は『おほもと』誌四四年九月号で「大地の母」なる一文を発表している。「…『大地の母』は、祖母や父母について、これまで秘められていたことをも伝えています。たとえば父は貧農の家に生まれたのですが、『大地の母』では父はある高貴な方の血をひいていたことにふれています。万物の母なるお土を日々に拝み、人間の生命の糧を生み出す百姓の中から、高潔な思想を強く貫いた父の人生がうまれでたことを当然と思いむしろ誇りをもっていたものを、別の事実がもらされても虚構がないだけに、物語としては曲折があり、翳りがあり、うるおいが附せられていて、興味ふかくうなずかされます」

内部から王仁三郎を描くには、その出生の悩みにふれねば嘘になろう。私は『大地の母』執筆にあたって直日に落胤問題について相談し承諾をえたばかりではなく、幾つかの秘められた事実すら教えられた。またすでに述べたように、直日は原稿にいちいち自を通し、間違いや言葉のいたらないところは指摘し、その完成に一方ならぬ力を入れた。今になって、しかも教主挨拶の中でことさらに落胤問題をもち出すことは不自然だ。弾圧を恐れる直日は、側近あたりから「落胤説が広がると、また不敬罪が復活してやられるかもしれませんよ」ぐらいにおどされたのであろう。しかし執行部はその言葉を楯にとり、「教主さまは落胤問題を扱った『オリオンの星』の発行を望んでおられない」と愛善会に二巻以降の発行停止を命じてきた。愛善会は教団の外郭団体であり、本部執行部の強制に屈することは、彼らの狙い通りに本部機構に組みこまれることになる。

『オリオンの星』は事実上の直日の監修になる『大地の母』の忠実な劇画化だ。それがいけないなら『大地の母』をも否定すべきである。第一巻を買った人は続巻の発行を期待したものであり、『愛善新聞』紙上で派手に広告しておきながら一巻だけで中断することは、読者への裏切りである。しかし私の主張はついに認められなかった。私は「発刊できないならばせめて紙上でその理由をのべ、読者にわびてもらいたい」といったがそれもいれられず、愛善会は今日まで知らぬ顔を通している。最後には「このままでは原作者として読者に顔向けできず、劇画家にも気の毒だ。自費出版してでも発刊するから、出版権を譲ってほしい」とまで懇請したが、「第二巻の劇画料は劇画家にすでに払ってあり、買いとった以上、出版するしないは愛善会の自由だ」とつっぱねられた。劇画家は正田ひとみであるが、彼女がいかに心血をそそいで書いたかを私はよく知っていた。劇画家は出版されるという前提の元に作画に打ちこむものであり、出版しないとなれば誰も引きうけはしまい。金で買いとればどうしようと自由だという考えなど、反大本的、反人類愛善的で社会常識とすらかけ離れたものである。また私は、愛善会の基金にもと、原作料は初めから辞退しているのだ。

第二巻以後の発行ができなかったのは、栄二派だったはずの広瀬会長、奥田事務局長がいつのまにか執行部に組みとまれていたからで、やがて彼らは栄二をも裏切ることになる

『大本教学』第一九号は五五年九月、大本教学研鑽所より発刊された。内容は私の執筆した『考証・出口直伝』を主とし、付録に『瑞月校閲・大本教祖伝(開祖の巻)』が掲載された四五四真にわたる書である。『考証・出口直伝』は私が『大地の母』完結いらい長年月かけ、多くの私費を投じて取材し執筆したものであり、教学研鍵所の要請に応じて出版を認め、しかも印税も辞退した。また教団内における私の立場を考慮して著者名を出すことも遠慮し、大本教学研鎖所編として出版した。それでもたちまち発行禁止になり、まぼろしの蓄になる。しかも著者に対してその理由の説明もなく今に及ぶ。一度は発行された『大本教学』第一七号、第一九号はすでに廃棄処分になったのか、どこかに死蔵されているのか、知るよしもない。

 

株式会社「いづとみづの会」の設立

五四年秋、栄二還暦記念出版の『出口栄二選集』全四巻〈講談社刊〉が完結した。この時もまた教団執行部からのいやがらせがあったという。私は再三にわたる出版妨害が腹にすえかね、有志の人たちと語らい、一〇月八日亀岡市内の料亭で出口栄二出版記念会を開催した。

栄二は綾部在住であるため亀岡市民とあまりなじみがないが、発起人の呼びかけに応じて市の有力者たちが左右を問わず集まり、著者を激励してくれた。だがかんじんの教団からは誰一人こず、信徒の参加も少なかった。亀岡で商売している信徒たちは大本本部のごきげんを損ねたくないから無理もない。「もし記念会に出席すれば今後教団との取引きは中止する」とクギをさされた業者もいる。栄二派でありまっ先にかけつけねばならぬはずの義弟の広瀬愛善会会長、奥田事務局長すら顔をみせず、権力に弱い構造をまざまざとみる思いがした。国家権力にあらがって二度までも弾圧されながら屈しなかった大本魂はどうなったのかと、背筋の寒い感がした。

同じ思いは圧力をはねのけて出席したわずかの教団奉仕者、信者にもあった。記念会のあと誰いうとなく「たんばぢ」に集まって二次会を開く。町の人たちまで祝意をのべて盛りあがった後だけに、執行部の妨害にはそれぞれやるせなさをかみしめていた。いつのまにか話は教団の腐敗ぶりに移る。

ぐちをこぼすばかりでなく、教団を思う心情と、だがどうにもならぬ怒りがあふれでいた。この席では私一人が祭司だ。自分が責められているようなつらさで立ち去りもならず、酔ったふりして横になり日を閉じていた。大本の真の教えに生きようとする信徒たちは教団の現状に絶望して個人的信仰にこもり、かつての勇みに勇む大本は影をひそめてしまった。確かに教団は「大本」ならぬ「大本もどき」として、形の上でははなばなしく発展するかもしれない。だがそれは、二度にわたる事件でも守り抜いた大本の本質をむしばむ犠牲においてだ。これを放置して眺めているばかりでは天界の王仁三郎にどう復り言できよう。父の遺言も強く思いだされる。私は起き上がり語りかけた。

「いくら教団の腐敗を嘆いてみても、そとからは何も生まれない。今はまったく聖師の教えはかえりみられなくなっているが、現体制の中で正面からそれを改革しようとしても力不足だ。たとえ遠まわりでもいい、心ある人たちで霊界物語を中心にした教学雑誌を出したらどうだろう」にわかに座は活気づいた。誰の心にも今、何かをしなければといういらだちがあり、それがこの提案で一気に形をなしてきた。たちまち全員一致の賛成をえる。ではどんな雑誌をつくるのかと、真剣に論議した。この日を契機として、有志の者たちが毎晩のように集まった。解散はいつも深夜になったが、みんなでカをあわせればなにかできそうだと勇気をわきたたせていた。だが雑誌づくりには本部奉仕者の力が必要だ。その場合、教団から雑誌の発行の中止を命じられれば、はたして抵抗できようか。

苦肉の策として株式会社の設立が考えられた。国家の認めた株式会社ならば、たとえ本部の強権をもってしても解散させることはできない。社長にだれを推すかで悩んだ。本部奉仕者がなれば、クビをきられることは必歪である。亀岡で発行するとなるとやはり亀岡在住の人が望ましい。この場合、社長とはスケープゴーツにすぎない。本部の圧力をはね返す気骨と信望のある人となると、なかなか思い浮かばなかった。坂田三郎にお願いしてはという私の提案は、全員の賛成をえた。

坂田は明治三八〈一九〇五)年に富山県に生まれ、大正一三(一九二四)年に入信、大本事件中の昭和一五年、出口家一族の住む中矢田農園に奉仕して農耕に従事したり、出口日出麿の看護につくした。五四年時点では、内事部管下の田畑の管理と農園の出口家各家の外回りが仕事だった。言葉数が少なく働くばかりで目立たないが、出口家にとっては家族の一員のような存在、かつて王仁三郎は坂田に「金時」というニックネームをつけ、澄も直日も「金時さん」の愛称で呼んでいた。

静かな人柄ながら、心中に教団の腐敗に対する激しい怒りの燃えていることを、私たちは知っていた。彼はすでに七五歳の高齢で身分は嘱託、六万三千五百円の低給である。もし本部をクピになったとしても、彼一人ぐらいの生活なら同志たちで支えられよう。問題は、教団からにらまれるこの役目を坂田がひき受けてくれるか、どうかだ。すぐに呼びにいき皆でお願いする。即座に彼は了承したが、その態度にはこの役目に残りの信仰生命をかけようという決意がうかがえた。

斎司としては出口新衛と私が参加した。また新衛の養子である出口昭弘や教えにめざめた奉仕者、亀岡在住の信徒が中心であった。私たちはまず亀岡に『物語』拝読グループをつくり、その輪を各地に広げていくことから始め、さらに一口五百円で株主を求めた。私は地方機関に講演を依頼されることが多く、行った先々で心ある人に会社設立の趣旨を語り、出資をお願いした。昭和五五年二月三日、設立準備総会が熊野館でひらかれる。三月一〇日、株式会社「いづとみづの会」(以下、いづとみづと略)の登記が完了。資本金二五〇万円、払込社員数百三〇名。その後も出資金が寄せられ、四月一日八百万円をこえ、残りは次回増資金とする。

 

第三次大本事件勃発

私たちが希望をもって雑誌創刊の準備中、教団情勢は容易ならぬ事態に進行していた。三丹主会問題の表面化である。

三丹主会とは、綾部を中心に丹波、丹後、但馬を所管地域とする大きな主会(本部総局のもと地方における業務を処理する機関)であり栄二派の強い地盤で、反執行部的態度をとってきた。京太郎派にとっては地元だけにやりにくい。執行部はその切り崩しをはかってきた。豊岡など二、三の京太郎派の色彩の強い支部が早くから「いうにいえない理由により」三丹主会から分離独立したいと申し出ていたが、「三丹は綾部を中心にした大事な地域だから、一つになって聖地を護持するように」との王仁三郎の言をたてに分離を認めなかった。

業をにやした分離派の主導者数名は教主に直訴する。直日は「気の合わぬものが無理にいっしょになっていることはない。竹田を中心に別の主会を創るよう」と承認、「{宮垣主会」という名まで与えた。

教主のお墨つきをえた彼らは執行部と結託して分離独立を求めてくる。だが三丹主会は大本教則五〇条「主会の設置、改廃および所管区域の変更は関係本苑、分苑、主会長の同意と総長の承認をえて総局が決定する」に拠り、同意せぬまま日時が流れる。ついに執行部は勝手に同意書を作成、三丹主会長の捺印を要求し「同意せねば、強権発動もありうる」と最後通告を発した。

この時点まで私たちは地方の派閥争いとしてにがにがしく眺めていたが、本部総局の最後通告をしるに及んで激しい危機意識を抱いた。強権発動とは教則の改正をさす。事前に各総代に配布された改正案では「同意」の一句が「意見を徴し」に変更、一見、一部の字句のさしかえにすぎぬが、実は民主主義から専制独裁へというほど大きな意味をもつ。つまり新しい主会の設置などは地方機関長の見を聞くだけで、後は同意があろうが、なかろうが総長の意のままに地方組織を料理できる。

京太郎の専制独裁は五〇条の改悪がまかり通ればもはや決定的になる。現実にも、それをみりして新主会の設立に動き出した幾つかの地方があるとの情報も伝えられる。こうして三丹主会問題はたんなる地方機関にとどまらず、全国的問題へと発展した。

私たちが過敏なまでにこの問題に反応したのは、それなりの状況があったからだ。大本では年四度の大祭を行なう。瑞生大祭は初めは王仁三郎誕生の旧七月二一目だったが、昭和三〇年より毎年八月七日にかわった。王仁三郎が第二次大本事件で保釈出所した八月七日なんだからで、いわば大本新生の日でもあった。ところが昭和五二年から再び旧七月一二日に変更された。なぜ出援にもどす旧暦に戻す必要があったのか理由は発表されない。亀岡市ではこれまで瑞生大祭に協力し、八丹七日を平和祭にきめ、花火をきそい、盆踊りをおどって市民全体の祭りにもり上げていた。学校は夏休み中であり、信徒たちは家族そろって参拝するのが楽しみであった。だが旧暦になると毎年大祭の日がかわり、時には九月にずれこむことすらある。なんのための変更か不可解であった。

大祭日の変更はそれだけではなかった。みろく大祭は例年四月七日に行なわれていた。春休みの最中であり花見ごろで、信徒にとってはまた楽しい春の祭りであった。ところが五四年から、これもはっきりした理由は告げぬまま五月五日にかわる。ゴールデンウイークで、地方からの参拝には交通事情が困難な時期である。首をひねった人は少なくなかった。ところがみろく大祭日をかえた本当の狙いが主に京太郎派の地盤から噂されてきた。「一厘の仕組」とはぎりぎり決議のところで情勢が逆転するとの筆先の文句で、その時期、方法は神しか知らない。ところが梅松教会や特派宣伝使たちによって、「大本の世継ぎは女がなるというのは間違いで、だから女のはばかる世の中になる。一厘の仕組とは男の世継ぎに変って京太郎さまが教主になることだ」といいふらされた。

三丹主会編の『但馬問題概要』には但馬地方で流されている噂〈すべて証言者あり〉を収録している。「開教九〇年(昭和五七年)で世が変る(組織が変り梅松教会が主になる〉」「開教九〇年までに神業奉仕(手柄)をする必要がある〈手柄をしたものが九〇年以降の信徒〉」「開教九O年になれば総長が(四代直美にかわり〉教団を名実ともにおさめる」「総長の神業奉仕のため、教主からいただいた作品(特に耀碗)は全部提出せよ」などである。昭和三年三月三日は女の節句、王仁三郎がみろくの顕現として現界的に活動すると宣言した日だ。昭和五五年五月五日は五の古数が四つ並ぶ二度とない男の節句、時いたりいよいよ京太郎が王仁三郎を襲名、みろくとなって大本を支配するという噂もひそかに流れていた。

権勢におどってここまで露骨な意図をむきだしにしてきた以上、教学的雑誌の発行ぐらいでは追いつかぬ。とにかく全国の信徒にこの問題を活字を通して訴えねばならない。批判的な雑誌を出せば、それにかかわる奉仕者の粛正は必定、家族ぐるみの覚悟がいるのだ。どんな苦難に合おうとも真信仰に虫きぬくことを確かめあい、生ぬるい教学的手法を捨てて教団改革をめざす『いづとみづ』誌発行をついに決意した。これが第三次大本事件の導火線となってゆく。

第三次事件は、竹田を中心に宮垣主会を作ろうとして火がついた。それは王仁三郎が保釈出所後、早くから予言していたことである。「大本事件は松竹梅事件だ。第三次は竹だ、竹だ」と。第一次は大阪の梅田から、第二次は島根の松江から王仁三郎は拘引された。筆先にあるように「梅でひらいで松でおさめる」だ。だがそれで事件は終らない。一次、二次は外からの弾圧だったが、第三次は内部からおきる。竹は内が空だから「内わから」おきるという。まさしく第三次は竹田(竹だ)問題を起点に内部から勃発した。

神代の昔、すさのおがとり払いたいと念じ歌った「八重垣」、王仁三郎がとり払おうとした囲いのある「園」。それなのに綾部を中にした主会に三代教主命でこともあろうに「宮垣」を作れとは。逆らう者らを分離孤立化させ、排除するために次々とはりめぐらされる垣なのか。

『いづとみづ』創刊号は四月一日発行され、全国の宣伝使に無料配布された。その中で「宮垣主会果して実現か、大和合精神いまいずこ 」と題して危機を訴え、資金カンパをお願いした。

当時いづとみづの会がもっとも配慮したのは、三代直自に累を及さぬことであった。

「…どんな苦難も恐れぬ我々の唯一の恐れは、我々の動きがご高齢の教主さまのお心をわずらわしはしないかということです。そのために幾度も立ちあがろうとしてはためらったのでした。けれどもその優柔不断のゆえにむざむざ三代の世を泥まみれにすることになっては…お許し下さい、今は教団の歴史の大きな曲り角、どうぞ一時のご辛抱を」『いづとみづ』二号

「…:総局のみなさまにあらかじめ忠告しておきたいことがあります。今までのやり口から察すれば、あなた方は教主に一方的な情報をそそぎこみ、教主の判断をあやまらすことでしょう。その結果、教主は本社の動きに対して激怒され、その、お気持を歌か文にしてウおほもと』誌、『愛善苑』誌などに発表されるととでしょう。それで万事解決と甘く考えているならばとんでもない誤算です。同じパターンで幾度も苦汁をなめさせられてきた我々にはもう通用しません。もしそんなことになれば、我々としては敬愛する教主に対してお言葉を返さねばならなくなります。自分たちの陰謀を糊塗するために教主を矢面に立てるような事態になった時、あなた方は、神にも教主にも、どんなおわびをするつもりですか」『いづとみづ』三号

誓っていうが、私たちは過激な行動に出ることなどまったく予期していなかったから、株主集めも公然としていた。だから執行部は早くから「いづとみづの会」の存在を知っていると考えていたが、彼らがこれを知ったのは四月一八日の総務会という。総務の一人が「こんな雑誌がでているが、知っているか」と『いづとみづ』誌をみせたのが初めてらしい。足もとから火がついたのだから、まさに驚天動地であったろう。すぐさま実態調査に走り出す。予測に違わず、教主にいづとみづは京太郎追いおとしのための結社だという先入観をまずうえつけ、「これは昇事件以上の大事件です」と報告すると、直日は「私は京太郎を(大本ではなく〉守るためには百まで生きる」と激怒したという。こうして総局は、直日をいづとみづの会攻撃の前面におし立てる。

 

疑惑の大本教則改正なる

 

『いづとみづ』の告発によって、総務会は二日後にせまる総代会に「教則五〇条」の改正を提出することを時期尚早としてひっこめた。強行すればみずからのファッショ体制を暴露することになり、心ある信徒の批判を恐れたのであろう。その情報が伝わった時、私たちは思いきって立ち上がってよかった、むだでなかったと喜んだ。だがそのかわり審議らしい審議のないままに大本教則の最後に第百三十七条という憂慮すべき条項が無雑作につけ加えられていたのである。

「〈合併及び解散の手続)第百三十七条「 この教団が、合併し、又は解散しようとするときは、責任役員を含む総務会の役員の定数の全員の賛成によって議決し、総代会の定数の三分の二以上の同意を得た上、文部大臣の認証を受け、なければならない。

2 この教団が解散した場合における残余財産は、解散のときにおいて責任役員である総務会の役員の三分の二以上と、その他の総務会の役員の三分の二以上によって選定された国又は地方公共団体あるいは、公益法人に帰属する」

大本には教団のあり方を定めた「大本教法」があり、この「教法」にもとづいて教団が目的に向って歩み運営していくために「大本教則」「大本規則」がある。敗戦により信教の自由が保証され、二〇年一二月二八日に従来の宗教団体法の廃止によって信教に対する法的統制がいっさい撤廃され解放的な宗教法人令の公布をみた。さらに二六年に宗教法人令にかわって現宗教法人法が制定される。

この法律は信教の自由を尊重する建前にもとづき、宗教団体に法律上の保護を与えるととを目的とする。宗教法人を設立しようとする場合、宗教法人法によって法人運営の大綱について定めた規則を作り、所轄庁の認証を受けなければならない。したがってどの宗教団体(法人〉の規則も根本において大差はない。しかし宗教団体がみずから行なう宗教上の行為について一定の準則をつくることは自由だし、また必要だ。たとえば神社本庁では三五年間も「庁憲」といわれる規制だけで運営されてきたがどうしても追いつかなくなり、五O年に「憲章」を制定した。

 

その呼び名はさまざまだ。教規〈金光教、天理教〉、宗憲(日蓮宗、天台宗、真言宗、曹洞宗〉、宗綱(浄土宗)、宗法(浄土真宗本願寺派〉、宗制〈日連正宗)、会規〈立正佼正会)、憲章〈神社本庁〉などで、大本では教則がそれにあたる。規制が世俗的な権利・義務のとりきめとすれば、教則は信仰的な面、聖なる面が重要とされる。かりに規則と教則のあいだに矛盾があった場合、法的には規則が優先するが、信仰的にははるかに教則が尊重され、また教則にこそ教団の独自性が発揮される。

大本は国祖の大神のご再現によって生まれ、永遠に救世の神業を続行すると信徒は信じている。大本規則に「合併、解散規定」 があるのは宗教法人法の定めに従ったものだから仕方がないとしても、信仰者の神経をさかなでするように、なぜ大本教則にそれをもりこ む、必要があるのか。それはその可能性があるからだと考えるのが自然だ。特に警戒したのは、もし解散したときの残余財産の帰属先の一つに公益法人とあること。縁もゆかりもない公益法人に帰属させるとは考えられぬから、大本教団の中にあり京太郎が教会長をする梅松教会が頭に浮かぶ。残余財産といえども、大本には王仁三郎、澄が命をはって守ろうとした綾部、亀岡の雨聖地はじめ全国の因縁の地など数多くある。大本が解散すれば、それらが梅松教会民にころげこまぬという保証はないのだ。

場合によっては教団相手に法的に戦うこともあろう。京都の烏丸法律事務所に相談し、折田泰宏、小山千蔭両弁護士に顧問をお願いした。いづとみづが今日まで大きな教団の権力相手に戦うことのできるのも、正義感に燃えたお二人の力におうところが大きい。

『いづとみづ』誌は道統(教団における世継ぎ)の継承が危ないこと、教団が『霊界物語』を封じとめようとしていること、疑惑の教則改正についてなどを全国の宣伝使に訴えた。これに対し教団は『苑誌』七月号の別冊付録としてパンフを作成、全国信徒に配布した。異例のことで、信徒無視の姿勢をつづけてきた総局がとつぜん変身して、笑顔をふり向け始めたのである。内容は「大本における教主継承の権威」「霊界物語の拝読とその実践について」「大本教郎、大本規則の改正について」だが、いずれも嘘とごまかしに満ちたものであり、いっそう私たちの疑惑を深くした。さらに八月号の別冊付録として「教則改正の問題点を分りやすく」と題するパンブを全国信徒に配布した。すべてについてふれる紙数がないので、「教則改正」についてのみのべる。カッコ内は総局側の弁明。

「…当局によって各宗教の代表者が集められ、例年おこなわれている宗教法人法の研修会で、昭和四二、三年ごろから、『規則の主要部分と教則の主要部分が一致するように』との指導がつづけられてきました。その中で文部省の指導ではそれほどでないところも、大蔵省の指導では、やかましくなってきたところがあります」

この主旨は、規則と教則の主要部分が一致するようにとの当局の指導で、やむをえず合併、解散の条項を加えたという。では教団の体制を左右したほどの重大問題である総長制が教則にあって規則にないのはなぜか、まったく不可解である。そんなけしからん指導をした当局とはどこの官庁か。総局は答えられまい。なぜならそんな事実は、なかったからだ。文部省に問い合わせると「そういう指導はいっさいしていない」という返事。では大蔵省は。「公益法人等にたいし財産を寄付した場合の譲渡所得非課税」の恩典を個人が受けるには確かに大蔵大臣の承認が必要であったが、それは昭和四三年四月から国税庁長官の承認に変っている。だから「大蔵省の指導ではやかましくなってきたところがある」はこっけいで、所管外のことを大蔵省が指導するはずがない。では国税庁を大蔵省とまちがえ

て記載したのか。私は雨の日、大阪国税庁に出むいて調査したが、やはりそんな事実はないという明確な答えであった。

「こうした行為のもとに作られた基準が国税庁長官から通達され、それにしたがったのがこのたびの規則、教則の改正となり、教則百三十七条はその中心となっています。この国税庁長官による通達は早くからきていたので、これに直ちに応じた他の教団にくらべると、大本はおそすぎたきらいがあるくらいで、それだけ慎重に敢り扱ったことにもなります」

これがまた大うそだ。国税庁長官が宗教団体に対して直接に通達することはありえない。さらに教則に合併、解散規定をいれたのが「大本はおそすぎたきらいがある」にいたっては、あきれて笑う気もせぬ。主務官庁である文化庁宗務課編の『宗教法人法の解説と運用』に「宗教法人はその本質上、永久に存続することを期しているので、実際に解散事由を規則で定めている例は少ない」とあるように、金光教、天理教、神社本庁、出雲大社教、日連宗、曹洞宗、浄土宗、真宗大谷派などは、いずれも規則にさえ本山の解散を規定していない。まして教則に解散規定を入れているところなど、まずみあたらない。それでもなお、大本は「おそすぎた」とぬけぬけと強弁する。

「…教団が解散または合併するとき、その財産はどうなるのかということを、国税庁の示す基準に合わしたことで、租税特別措置法の第四〇条による特典を受けることができるので、その基準に合わした大本規則、教則がないままでは免税になりません。しかも大本には解散も合併も絶対にありえないのですから、それらについてはなに一つ心配されることなく、特典だけがあることになります」

それでは規則すらない金光教、天理教などはいままで納税していたのか。大本に解散も合併も絶対にありえないのなら、教則に入れる必要のない解散規定を嘘をついてまでなぜ無理に入れたのか。なんらかの腹黒い意図があると思われでも仕方があるまい。このような調子で総局の弁明はつづくが、嘘を一つつけばそれをごまかすためにまた大きな嘘をつくという見本である。どうにもごまかしきれなくなると、またまた教主の権威で頭を隠す。

「開祖さま、聖師さまのお気持ちが、私たちの誰より、もっともよくお分かりなのは、いまの教主さまのはずです。このたびの改正案が、み教えに反するものかどうかも、教主さまのお認めによって分かっていただけるでしょう。信仰的にはいくら条文化したくなくても、法律上からは、監督官庁から求められればやむをえないこともありますから、もう少し社会通念によってお考えいただきたいと存じます。なお大本の信仰をなされているのであれば、教主さまに主一・無適の信仰をささげて、もう少し善意に周囲のものをみていただきたいζ とであります」

どんな優れたコンピュータでも、間違ったデータを入れれば間違った答えが返ってくる。教主に「何もかも非課税の恩典をうけるため」といえば「やむをえませんね」と同情して答えよう。だが「非課税措置のために教則と規則を合致させよとは、当局はいっさい指導していないが、教団財産をある特定の公益法人に帰属させるために、教則に解散規定を入れたいのです」と本音をはけば教主は認めるだろうか。これを社会通念と思いこまされる善意の信者こそあわれである。

 

始まりの宗教改革

いづとみづの発足が知れるや、全国各地から激励の手紙や資金カンパがぞくぞくと寄せられ、また山口本苑、丸亀分苑、善通寺分苑、東海本苑、静岡主会、三丹主会などの地方機関からも決議文、要望書、誓言などが発せられ本部側の反省をうながすなど、大本にはまだまだ自浄作用のあることを裏づけた。「きゃんきゃん鳴く犬は蹴っとばしておけばよい」とうそぶいていた執行部も無視できなくなり、殺し文句を並べてくる。

「教主さまに主一無適の信仰を捧げて…」という美辞だ。

本来、天啓の宗教とは、神が教祖を通じてこの地に教えを下し、以後の教主は信者の上にあって教えを守り広めてゆくべきであり、図式で示せば神―教えー教主― 信徒となる。しかし梅松教会を中心とする京太郎派は教主を絶対化し、教えの上に教主、教主補をおいてきた。教主は神と同列である。教主という絶対の生神がある以上、出口直、王仁三郎は過去の人、『大本神論』・『霊界物語』は過去の教典、教主・教主補の著書こそが現代の生きた教典と信徒を教化してきた。そして教主・教主補の周りを自派で固め、教主の片言隻句や教主補の染筆を自分たちの都合のいいように解釈し利用してきた。尾崎

尾崎咢堂(がくどう)ばりにいえば、「教主を胸壁となし、教令〈教主の発する公文書)をもって弾丸とし」いっさいの批判をおさえつけてきたのである。

こうして大半の信徒は教えは二の次、教主の命令に絶対服従することが「主一無適」の真信仰だと信じこまされてきた。教団執行部が金科玉条約にふりまわす便利な言葉だ。栗原彬立教大教授は第三次大本事件にふれ、主一無適の用語の内容が「教主の絶対化、生き神化に転用されている」(毎日新聞夕刊・昭和五五年九月一三日〉と的確な指摘をしている。もともと朱子学の用語であり、「心を一つにして他に散じさせない」の意で、「主」は名詞でなく、「主に」という副詞だ。その対象も宇宙の原理とかの漠然としたもの。「主」の意味がわかりやすい対象(玉、君主、組織の長など)にすりかえられ、朱子学が封建社会の思想的根拠として利用されてきた。その誤りをくり返しているのが執行部といえる。王仁三郎は朱子学本来の主一無適の用法に即しつつ、さらにゆたかな内容をこの言葉にこめた。『霊界物語』三一巻一章「主一無適」によれば、宇宙創造神であり、この地上にみろくの世をもたらす救世主神に帰一することこそ、主一無適の信仰である。「貴族なければ賎族なし」とは老子の言だが、教主の絶対化を認めることは差別意識をみずから認めることにほかならない。いづとみづの会発起人代表であった児島一統が五月二六日六九歳で安らかに昇天した。児島は昭和五年からの古い信徒で、第二次大本事件をのりこえ信仰を深めていた。昭和三四年より八年問、京都主会長、京都分苑長をつとめ、また大本審議会議員、大本総代、大本参与と教団本部の重職にも誠心誠意奉仕した。それだけに教団腐敗への嘆きは大きく、最初からいづとみづの会の結成に参加した。亀岡における物語拝読会にも、病気で倒れるまで一度も欠席することはなかった。視力も弱り、自分では読めぬため、背を正し膜目したまま長時間、拝読の声に聞き入っていた。京都本苑は児島の生前の功績から「天思郷葬」を本部に申請したが「資格」にかけるという理由で却下され、二八日天恩郷の鳳雛館で京都本苑葬により盛大に執行された。本部長や本部職員ら多数の参列する席で、私は初めていづとみづとして言あげし、その胸の内を弔辞であきらかにする。

「…あんなに待ちこがれていた『いづとみづ』の刷り上がったばかりの三号を病床にお届けした時には、あなたの意識はありませんでした。かわって奥さまがしっかりと受け止めて下さいました。大本の正しい発展を願って立ち上がったばかりの私たちからあなたを失うのは耐えがたい傷手でした。でも児島さんのご遺志は奥さまの胸に、私たちの魂の中に脈々と息づいているのを感じます。あなたのかばねを越えていま、いっそう私たちは団結し、誠一筋に生きることを誓います。あなたの全生は最後の最後まで大本信仰の真実によってつらぬかれ、いぶし銀のような光彩を放ちました。この輝きは、心ない人々のどんな中傷や悪罵をもってしてでも傷つけることはできないでしょう。どうぞ現界のことはご放念なさって、今こそあなたの大好きな聖師さまのおそばへ天かけってください。ほんとうにありがとうございました」

 

六月三〇日、天恩郷の春陽閣で石橋(しゃっきょう)会が催された。石橋会は直日の命名による茶会で、もともとは日向良広(ひゅうがよしひろ)の霊をなぐさめるのに端を発したものである。昭和四四年から毎年六月三O日に盛大に行なわれ、大本の道に殉じた先人の遺族を招待し遺徳をたたえしのぶ。信徒にとって何よりの魅力は、大祭にも姿をみせぬ三代直日とこの日ばかりは言葉をかわせることである。

出口新衛、坂田三郎、児島道栄(一統夫人)も遺族として本部から案内状をもらい出席の用意をしていたところ、当日朝になって管理部長の小林正雄からそれぞれに「出席しないでほしい」との電話があった。その報告をうけた私が小林に電話で真意を確かめると、「席が不愉快になるので個人的配慮から出席をお断りしたので、お膳も用意していない」とのすげない返答だ。要するに「いづとみづにかかわっている者は出るな」との拒否であり、「これは教主さまのご存知ないことで自分の一存です」と強調した。招待状を発しながら当日になって断わるのも非礼きわまりないことながら、個人の生前のみたまを祭りその徳をたたえしのぶ催しに、遺族を通して先人の霊まで差別したのだ。また教主に無断でこのような処置のとれる教主側近の横暴を示すものであった。

五五年七月の第五二回大本総代会は教主が臨席するという前例のない状況下で、大石栄教務局長がいづとみづの会の活動にふれ、「大本神業を妨害し、信徒をまどわすものだ」と強調。総代は一致してこれを認め、「信徒はこのような神業妨害活動にかかわりをもつことなく主一無適の信仰に徹してほしい」旨のアピールを決議した。また教則第五O条に第五項を挿入、「主会の設置、改廃及び所管区域の変更に関し、前項の規定に拠ることができないときは、大本総代会の同意を得て、総局が決定することができる」として可決される。   このあと森本部長が緊急動議を上呈、「宮垣分苑分離独立に関して三丹主会長の同意がえられないので、本日施行の第五項を適用し、本総代会の同意をえたい」

とはかり、審議の結果、八月七日の総代会常任委員会で設立に同意した。以後、教則第五〇条第五項が猛威をふるい、反執行部の地域の切り崩しが行なわれる。

いづとみづは八月二一日、「教団改革をめざす第二回全国活動者会議」を亀岡市内で開催、「綾部、亀岡の両聖地を守る、道統の継承者を守る、大本神論・霊界物語の二大教典を守る」ことを決議した。毎日新聞がこの日の朝刊で「二〇年の内紛、表面化」として紛争を大きく報ずると、朝日・読売・サンケイなどの全国各紙、地元紙、宗教紙・などが一日遅れて負けじと報じ大本の改革運動は世人の注目をあびる。翌二二日の瑞生大祭における教主挨拶では「…:大本の道は道統の継承におきましても人為のおよぶところではなく、教団の危機は別のところにあるものと存じます。直美のもつ使命は何人たりともこれに替れるものではございません。同じように、京太郎が生まれさせられたことは果たすべき神さまからの役目があるので、また他に替るべきもなく、これに協力することにより今の時代を進展させ、ひいては次の時代の豊穣につながるものと存じます。ただその中にあって、正すべきには厳しく致したい所存でございます」とのべた。

午後、いづとみづの会は天窓郷の近くの亀岡会館で「出口王仁三郎を想う集い」を開催、八百人の会場を満席にした。この集いでは本部批判をひかえ、純粋に玉仁三郎をしのんだ。

毎日新聞九月一三日夕刊は栗原彬立教大学教授の「大本紛争の提起するもの、始まりの宗教改革」と題する論文を掲載する。

「…今日、にわかに宗教界に火の手が上がり始めた。長い間つづいてきた東本願寺の内紛のほか、創価学会の内部告発に次いで、民衆宗教大本の改革問題がクローズアップされてきた。それぞれ争点は異なるけれども、踏みこんでいけば、信仰の本質、教団のアイデンティティそのものにかかわる論点にいずれもゆき着く。なぜいま信仰の本質問題か。私は、少し永い自で見れば、宗教の改革をめぐる苦闘は、学園闘争に端を発する文化革命の最終版、連れてきた、同時に始まる宗教改革と言えると思う。ことのほか大本が提起しつつある問題は重要である。この八月二二日、京都府亀岡で、大本の瑞生大祭の折に、かねて教団執行部への批判を行ってきた『いづとみづの会』の信者たちは『王仁三郎を想う集い』を本部の催しとは別に開いた。慕われた製師・出口王仁三郎を偲ぶことに徹することで、その陽気な祭りはかえって本質的に教団本部に批判の矢を射込むことになった。…大本が抱えこんだ改革の産みの苦しみは、管理社会がその内部から次の未見の社会を産み落とす時の苦もんと同根である。我々は、大本の人々とともに、管理社会の完成に手を貸すのか、それとも神と人と他の命が共に生き生きと生きられる『みろくの世』の方へ歩み出すのか。大本の宗教改革は、現代史の行方を占うに足る深い問題をひそめている。

 

言論弾圧の全国機関長会議

 

直日はいづとみづ弾圧の先頭に立ち始めた。全国の有力信徒を茶会に招き、みずから親しく接待して「いづとみづに参加するな」と説得した。地元の信徒たちにはなおさらだ。『おほもと』誌九月号には、「教団の危機とか言いて昼日中のさばり歩く松毛虫ども」の歌を発表、いづとみづの会員を「松毛虫」と差別的言辞で呼びすて、憎しみをあらわにする直日であった。教主説得の威力は大きく、直日からお茶をのまされるだけで感激しころりと変節した。いづとみづの参加者はかつて国家の大弾圧をしのいでいるだけに、それらのけわしい目にも屈しない。物語拝読会は真剣であった。その妻や家族たちは家事をなげうってまで集いあい、いろいろな仕事を手伝った。

改革運動には常に犠牲がつきまとう。地方でも本部派といづとみづに割れ、親しかった友たちも信仰の違いで断絶する。親威、家族のあいだでさえ二つにわかれることは珍しくなかった。亀岡の一信徒たちは、地元だけにそれが激しかった。斎司も、色わけがはっきりする。本部側は出口京太郎、出口虎雄、出口光平、三諸斎、本部に属しながらやや中間派は出口尚雄、広瀬静水、そしていづとみづの会は出口新衛と私。まさしく村八分の状態である。母八重野は気の毒だった。二度の弾圧をくぐった時は親子、姉妹ともかくも心は一つであった。他の姉妹と同様に大本の教えにまるで関心をもたなかった母は、息子のかかわった運動の深い意味など理解できない。なのにある日とつぜん、直日姉や梅野姉、甥や姪、親しい友らとの距離が無限に遠ざかってしまった。どんなぐちでもこぼせる夫は今はない。一番仲のよかった妹の尚江は三年前の五二年七月に他界し、むしろあまり気持のあわなかった妹住之江と助け合わねばならない。親しかった人たちは教主や教団からにらまれるのを恐れてぴたりとこなくなる。活動の拠点の熊野館にはいろいろな同志たちが訪ねてくるが、それまで母をとり巻いていた人たちとは肌あいが違う。教えの話などおもしろくもない。はじめは部屋にひきこもり勝ちだったのが、いつかそれらの人にまじって『いづとみづ』誌の発送や帯封書きをしている母をみると、親不幸の思いに責められた。

住之江はいづとみづの運動に積極的であった。他の姉妹とただ一人違って養鶏、養豚、しいたけ栽培などをしたり、家事のあいまに編物、縫物、織物と器用な手先をつかつて作品をうみだし、虚弱な体をせいいっぱい動かして生きてきた。四九年夏。腎不全で倒れ人工透析に通院するようになるが、いづとみづの会の信条をよく理解し、率先して運動に参加した。知人の信徒に毎日のように手紙を書いて、自分の信念を訴えた。五〇年九月初め、敬愛する作家の住井すゑをはるばる茨城県まで訪ね秋の一日を心ゆくまで語り、三度目めには「先生にはとてもよく、お似合いになるから、ぜひお召しになって下さい」と、自分で織った黒い夏羽織りを置いてきた。死を予期したのか、夫新衛や娘たちに「死んでから開祖さま、製師さま、二代さまに、お会いする時、胸をはってお話がしたい。そうやからいづとみづでがんばったのやで」と語った。また「祝詞をしっかり頭にいれたい」と王仁三郎の『祝詞釈義』を読み「これで安心や」と笑ったが、一〇月一三日、入院先で六二歳の生涯を静かにとじる。遺書によって、住之江の角膜はすぐさま自の不自由な人に提供された。

住之江の葬儀に関して大本教主から「天思郷葬」の礼を贈ると申し出があったが、遺族は相談してそれを辞退した。大本本部の「葬儀執行規定」に「本部葬の礼遇を受ける者は、出口家、その有縁の者、及び神業奉仕に一生を捧げ、とくに功績顕著であった信徒で、教主が裁定したものである」とある。住之江は王仁三郎・澄の末娘で祭司家の当代者だから、当然、本部葬を受ける資格がある。天恩郷葬が不足なのではなく、「葬犠執行規定」がありながらこれを無視し霊魂まで差別を加える執行部のあり方に抗議したのだ。葬犠はいづとみづの会の人たちが中心になって、自宅で執行された。目前に住む姉直日は参列せず、七八歳の住弁すゑが茨城県からかけつけ、遺体の前に涙ながらに、お別れの言葉をのべてくれたのが強く印象に残った。

一一月一六日、地方機関からの強い要請で教団はようやく全国機関長会議を開催、冒頭から緊迫した空気になる。執行部は話しあいの姿勢ではなく対決姿勢で地方からの本部批判は強気でおさえる。本部通達で時間をかせぎ地方からの発言を極力止めようとする意図は明らかであった。はたせるかな総長、本部長のながながしい挨拶の後の報告、示達事項において「それらは印刷物を読めばだれでもわかるから、いちいち読みあげてもらう必要はない。その時間は質疑応答の時間にまわしてほしい」との要求をにべもなくはねつけ、事務当局者に全文を読みあげさせる。さらに新任の教務局長三諸斎が説明に立ち、再度それをなぞるようにくどくどとくり返し、午前中を終る。このだらだら作戦は午後もつづき、午後四時までひきずられた。ようやく質疑応答の時間が一時間ほどとられたが、これも各

機関長のせつなる要求があったればこそである。

山口本苑長植田英世が質問に立ち、森本部長が答弁している最中、京太郎が蒼白に、なっていきなり立ちあがり、にぎりこぶしをわなわなさせ「やるか」と叫んで上着を脱ぎかけた。田中座長と発言中の森が両側からあわてておさえ暴力ざたを防いだが、宗教教団らしからぬ前代未聞の出来事であった。

村松銀蔵静岡主会長が「本部はいづとみづの会を攻撃するが、本部のいうことに誤りが多い。教団方針にいう神聖大家族の精神とは矛盾する。その前に本部にかえりみる心が必要ではないか。いづとみづが生まれなければならなかった理由が教団自身にあったことについて、本部執行部にいっぺんの反省もないのは、どういうことか。また住之江さんの葬儀についても、本部執行部の配慮のなさが感じられる。教則第五〇条の改正はもっと慎重であるべきではなかったか」とさとすように訴えた。だが本部側からは一言の反省もなく、地方機関長の教団を思う心情の吐露を完全に黙殺する。

この会議で京太郎は「いづとみづの会が解散してあやまってこねば話しあわない」と発言したが、二一日の共同記者会見でも同様の趣旨を諮った。大石副本部長が「いづとみづの会とは公式非公式をふくめて五、六回話しあいをもったが、話にならなかった」〈京都新聞一一月一一七日〉と語っている。が、これも嘘。それまで個人的な話しあいが二、三度もたれたことはあっても、教団執行部といづとみづの会との間では公式非公式にかかわらず、ただの一度も話しあいの場はもたれていない。またこの日、本部執行部は出口栄二に「本部におけるすべての祭典の斎主、地方祭典または講話を遠慮するよう」 との謹慎処分を命じた。栄二はいづとみづの会の運動に関係ないにもかかわらず、一一月五日、いづとみづの会主催の「出口なおを想う集い」に聴衆の一人として加わったという理由である。

私は六月以来地方出講の停止を命じられ、九月八日、道場講師解任、一二月一日、教学委員を解任され、斎司の身分を残すのみ。またいづとみづに参加しているとにらまれた本部奉仕者には徹底した差別人事が開始される。不適材不適所の虐使的な職場配置転換をしたり、亀岡在住者を綾部に通勤させたり、役職剥奪、賞与の減額などみせしめのいじめが横行する。

こうして無我夢中の昭和五五年が暮れようとする。大本内の対立が表面化したとき、ジャーナリズムの多くは、昭和三七年の機構改革いらいの一八年ごしの内紛の延長線上にとらえたが、これは皮相な見解というほかはない。三七年、栄二派と目された奉仕者に対しての激しい差別人事に耐えかねて京太郎派に忠誠を誓った人たちは今、執行部の中核にあり、いづとみづ弾圧に躍起である。教団の前途に悲観して教団を去り、個人的信仰にこもってしまった人たちもある。きびしい圧迫に耐えながら教団内にとどまり奉仕をつづけてきた人たちはわずか数人にすぎぬ。一八年の年月は、もし怨念があるとしてもとっくに風化している。私にしても、三七年には教団外にいたのだ。いづとみづはただひたすら教えの原点回帰を願う者たちの集団なのである。だが第三次事件の本質を鋭くとらえる人たちもある。たとえば朝日ジャーナルは、宗教評論家の丸山照雄の論文を掲載している。

「…いづとみづの会が信仰と教学の覚醒運動としてどれだけの成果をあげることができるか、そのことが大本改革への最大の鍵となるであろう。…教団の頂上を天皇家と結び、被差別部落の八割を門徒としてきた本願寺の内部から、親驚回帰への道をめざして挑戦する一団の青年があり、変革と希望と解放を願った宗教を権力に奪いとられた地点から『立替え立直し』の教えを説いた大本のよみがえりを期す信徒の一一団がここにある。八〇年代日本宗教の可能性は、この一点から切り拓かれていくであろう」五五年一二月一二日号

 

教主年頭の辞「道を護らむ」

昭和五六年の年頭の辞「道を護らむ」で、直日は宣言する。

「…去にし年、私たちの教団に思いもかけぬことがおとりました。それが私の身内からことをおこしたというのですから、役員の方にも大勢の信徒の方々にも余計なご迷惑を、おかけいたしまして、まことに申しわけなく存じます。あのものたちが、どうしてあのようなことをおこしたかにつきましては、いまだによく分からない私であります。ほんとうに教団を憂えてのことでありますれば、私に、私に近いものに話しかけてくれましたことでしょうのに。そうするのに、私を初め、私の周辺が、いつの場合も解放的で調和的でありますことは、どなたよりも一ばんよく知っていてくれたはずであります。それをしないではやくより密かに謀り、突如として事をおこしたというのでは、私の家の実状とかけ離れすぎて理解に苦しみますとともに、あの者どもに違和感をおぼえざるをえません。

それでも一応はあのものたちの言わんとするところを謙虚に受けとめてみたいと思いまして、書いているものを冷静に読んでみましたが、むしろありもしないこと、おこりそうもないことで危機感を競りたてているにすぎないようにおもわれました。これでは素朴な方々をいたずらに惑わすだけのことになりますのに、そとに気づかないというのですから、どう考えてみましてもひどい思い違いをしているとしか思えません。そのことにあのものたちが気づいてくれればよし、いつまでも頑冥に思い違いを貫こうというのでありますれば、この節分を機といたしまして、私たちの教団から離れてもらいまして、別に独立してくれることを希望するものでどざいます。私といたしましでは、これ以上しつこく、あのような方法で信者の方々にご迷惑をかけますことを黙視しているわけには参りません。

昨春来、これまでの経過をじっと見つめてまいりますと、そこに意外にも根深いところに潜んでいる黒い動きのあることに気づきました。ただそれがどういう理由によるものかは、未だにはっきりいたしません。それにこのたびのことにつきましては、斎司家としての対処にも考えさられるものがあります。なお本部におきましでも、地方におきましでも、あの者たちに同調された方のあることは私の不徳のいたすとζろでございますが、私といたしましては、まことに遺憾に思う次第であります。これら私の時代に生じました不祥事は、信頼できる役員や皆さまの代表とも相議りまして、ご了承を得て、きれいにいたしたいと思うものでどざいます」

 

直日は「節分」を機として、いづとみづの追放を公約したのだ。秋いらい大腿骨頸部骨折の大けがで入院中の教主からうまく年頭の辞を引きだすことに成功した執行部は、「こ れでいづとみづの会は雲散霧消する」と大喜びしたという。なんといっても教主に弱い信徒である。教主の言におびえて運動から手をひけば、彼らのカンパで維持されている会は兵糧を断たれて腰くだけになろう。

しかし彼らの読みは浅かった。たしかに少し以前であれば、生神としての教主の権威は絶対であった。だが一年たらずの激しい戦いを通じ、教主をみつめる目からうろこが落ちたのだ。会員たちが「生神信仰」の呪縛から解き放たれ、格段に成長していたととに気づかなかった。

執行部は、これまでいづとみづの宗教改革の動きをたんなる出口家内部の争いとしてこ とさら卑小化し、ごまかしてきた。だが大本には強力な自浄力が活きていたからこそ、原点に帰ろうとする運動がおこったのだ。直日はそれらの信徒の教団をうれうる心情をいささかも理解していない。しかも「あのもの」という高慢で下卑た言葉づかいは、「松毛虫」という差別用語と同様に、敷島の道にうちこんできた直日の言葉とは思えなかった。逆に教主幻想が一気にくずれたのである。もし直日が、本気で「私の周辺が、いつの場合も解放的で調和的である」と思っているとすれば、とんだ裸の玉さまだ。愛善苑新発足以来、中矢田農園は解放的で調和的で誰でも自由に出入りできる楽園であった。ところが梅松館ができ教主と京太郎一家が移り住むと、その一角は別であった。他の農園の家々のように声をかけつつ奥までふみ入るなどとんでもない。ひところは館の周辺に赤外線警戒装置をはりめぐらす用心深さだった。第一、教主に簡単に面会できるだろうか。内事室を通し、受付を通し、教主側近や秘書を通し、ご機嫌のよい時をみはからってようやく面会できるのだ。気楽に会えるのはお茶や仕舞いの友で、ほんのわずかなお気に入りばかりである。晩年の父など、病気でふせっていたときに直日に呼ばれ、わざわざ羽織はかまに着かえて梅松館にいったが、受付で何時間も待たされ、結局会えずにふらふらになって帰ってきた。秘書が直日に通していなかったのだ。それも知らずに直日は「呼んだのにこなかった」と怒った。

「はやくより密かに譲り」というが、私たちは教学雑誌の発行を考えていたのであり、それをこのように追いこんだのは京太郎以下執行部にある。だからこそ自分たちの責任逃れに直日にそう思いこませたのあろう。

「ありもしないこと、おとりそうもないことで危機感を煽り」「ひどい思い違い」については間もなく現実が証明する。

「意外にも、根深いところに潜んでいる黒い動き」とは何をさすのかよくわからない。私たちこそその黒い動きに対して立ち上がったのだが。教主の年頭の辞によって栄二派の地盤の一部で後退する地域もあったが、静岡主会、山口本苑、長野分苑などは「たとえ教主の言といえど間違いはある」としてがっちり団結し、かえって執行部との対決姿勢を強めた。

覚え書きの調印と懇話会の発足

執行部は情勢判断の誤りに気づいたが、教主の言葉の通りに処分を決行する勇気もなく、かといって「あのものども」を節分まできれいに粛正できねば教主の権威は失墜する。執行部は窮地に追いこまれた。森本部長が出口昭弘に会見を申し入れ、一月二四日両者のみで「節分前に元老および中立の総代の仲立ちによって本部側といづとみづの話しあいの場を作る」ことが語られた。執行部は元老伊藤栄蔵と中立派を自認する北海本苑長田中耕治を介していづとみづとの調停工作にのりだした。三〇日病躯をおして亀岡へきた田中は伊藤とともに両者の調停に奔走する。一方いづとみづは同日決議機関である全国運営委員会を開き調停をうけるかどうかを論議、仲介者の努力に応え、またできる限り平和的解決が望ましいとの考えから条件次第で和解に応じることを了承した。幾度もの激しい交渉の結果、節分直前の二月二日夜、本部執行部といづとみづ代表の間で、次の覚書がかわされた。

一 執行部は、つねにかえりみるべきはかえりみ、正すべきはただし、教主さまにど心配をおかけしましたことをご面会の上、お詑び申し上げます。

二 「いづとみづの会は教主さまにご心痛をわづらわしましたことを書面をもってお詑び申し上げ、今後はひたすら建設的な方向へ向います。

三 大本の今後の正しい発展をねがって、「懇話会」をつくり、和やかな雰関気の中で建設的な意見を交換します。

懇話会において合意に達した事項については、誠意をもって建設的な方向に善処します。

懇話会の運営については別に定めるものとします。

覚書には、大本執行部代表森清秀、いづとみづの会代表 出口和明・出口昭弘、世話人 田中耕治・伊藤栄蔵が調印する。翌二月三日、執行部といづとみづの会が共同記者会見を行なったが、私はいづとみづを代表して次のようにコメントした。

「我々は、大本出現の意義である立替え立直しの型を、開祖・聖師の教えにもとづいて教団ぐるみおこなうことを確認しあった。大本にとって意義ある節分のよき目、急転直下こ ういう解決をみたことは、我々自身、信じられぬ思いだ。政治家や裁判所などの力をいっさい借りずに解決の曙光をみたことは、大本の中に自浄作用のあったしるしであろう。これは宗教法人らしい紛争の解決であったと思う。しかしこのことは原点回帰への第一歩をふみだしたにすぎず、今後の懇話会のあり方は全信徒のみならず、教団の外からもきびしい注目をあびるであろうと思う時、我々は身の引きしまるような責任を感じている」

本部執行部は、京太郎以下数人が独断で極秘に覚書に調印したため、本部側内部の混乱と動揺は大きかった。執行部は苦しまぎれに三月中旬頃『いづとみづの会について…その経過とあらまし…』なるパンブを作成、全国機関長に配布した。その内容たるや事実誤認による独断と偏見にみち明らかに覚書の精神に反するものであり、後に懇話会を暗礁に乗り上げさせる一因になる。

三月二七日、二八日の両日覚書にもとづいて、伊藤・田中両世話人立ちあいのもと、執行部といづとみづ代表各五人が参加し、第一回の懇話会が開かれたが、冒頭から激しく対立する。本部発行パンフの件、奉仕者の差別人事問題、懇話会規則などが論議され、特に懇話会の公開を求めるいづとみづ対しに執行部はあくまで非公開を固執、結論は次回にもち越された。その後、本部は先に機関長あてに配布した問題のパンフを今度は全信徒に配布した。内容の事実誤認について執行部も一部に非を認めたにもかかわらず、なんら修正されなかった。また本部側の役員や特派らが各地で「いづとみづの会を認めたわけではない」と発言して、波紋をなげかけた。さらに本部は『苑誌』四月号に「大本審査院規定」を発表し信徒に大きな衝撃を与える。懲戒に関する条項が半分以上を占めるという、まことに奇妙な規定であった。この時期に「懲戒規定」を作れば信徒に与える刺激が強すぎるため「審査院規定」の皮をかぶせたにすぎず、狙いは栄二派やいづとみづ会員の追放にあることは明らかだ。

四月五日、本部の態度は覚書の精神に反するものとして本部側に反省をもとめるべく抗議書を提出。だが第二回懇話会開催予定の一六日午前九時ぎりぎりまで待ったが責任ある回答はえられず、懇話会は流会となった。五月一九日「懇話会を継続するか否かを話しあう会」を開いた。いづとみづでは懇話会再開の条件として「懇話会は秘密めいたベールをはぎ公開性にすること」の一点にしぼった。執行部は終始拒否しつづけたが、いづとみづの正論と「それがいれられねば懇話会破棄もやむなし」の強い姿勢についに譲歩し、誌上での公開のみを認めた。

第二回懇話会は六月一九日「総長制問題」のテーマによって開かれる予定だったが、執行部側は録音を拒否し、『いづとみづ』誌の店頭販売中止をあらたに公開のための条件として持ち出してきた。

『いやっとみづ』誌は第三種郵便物の認可を受けている。一般市販を中止すれば第三種の資格条件に欠け、郵送料がはねあがる。いやがらせでしかなかった。録音について執行部は最終的に譲歩したものの、店頭販売の件については両者譲らず、総長制問題の討議に入らぬ前に中断した。節分をきりぬけた以上、執行部にとっては懇話会などわずらわしい存在にすぎなかったのだ。

一二月二〇日、本部執行部、ならびに世話人より懇話会中止の申し出があり、五七年一月一五日いづとみづがそれに同意して、懇話会は解消された。

 

松の根先の大掃除、出口栄二の追放

執行部は審査院規定を作るや、すぐさまその実行にのりだした。審査院審事はかつての栄二追放の中心人物やその協力者で構成されている。五月から五回にわたってひらかれた審議委員会では、栄二の三〇年にわたる言動をほじくっていた。その裏で妙な動きがあった。広瀬愛善会長、奥田愛善会事務局長が「このさい謝罪してしまえばあとはどうにでもなる」と栄二を説得、広瀬が教主に、奥田が審査院に対する謝罪の案文を起草した。それでもためらう栄二を説得したのは嵯峨総代会議長、伊藤研鑽所長で、それを陰であやつったのは三ツ野審事といわれる。栄二は「自分さえあやまれば事は穏便にすむ」と信じ、ついに六月二六日謝罪文を提出する。みずから罪を認めてしまったのである。

審査院は審議の結果を八月一日付で教主に答申した。教主はそれをうけ、八月一一日の瑞生大祭の教主挨拶で「いま、大本の中はいろいろと改めるべき問題が尾を引いていて、まだ揺れているようにおもわれます。真剣に神さまを拝まれている方にはかかわりのないことですが、省みて教団のあるべき姿に鑑み、自に余ることには、松の根元から大掃除させていただきたいと存じます」とのべ、粛正近しを予告した。皮肉なことに、この特に配られた直会(なおらい)をたべた人の中に多数の食中毒患者が出て本部をあわてさせた。教団はじまっていらいの珍事である。大祭係員が直会の折詰めの匂いをかぎながら「早くたべて下さい」といって渡したというから、その時点で異臭を放っていたのだ。自にあまる

松の根元の腐りようを象徴した事件であった。

この瑞生大祭の前日、株式会社「いづとみづの会」の社名を「いづとみづ」とし、運動体として新たな組織、「いづとみづの会」を設立。当日、亀岡会館において「第二回出口王仁三郎を想う集い」を開催した。

 

教主より「処理方」を一任された総局は二度にわたって総務会を開き、審査院の答申通り発令にふみきった。九月五日付で栄二の斎司、祭教委員長、教学委員などのあらゆる役職を免じ、宣伝使を解任し、事実上教団から追放した。一三日、総代会を開いて栄二解任とその理由を報告、また記者会見して森本部長は「出口栄二氏はもう教主補にはなれないだろう。教主補についてはあらたに教主、教主補選任規定を作ってきめる」と言明、京太郎派の本音を吐露している。栄二追放は教主補への道の遮断であり、永年の野望の達成、なのだ。教主の権力を利用して、巧みに私怨を晴らしたのである。栄二追放は教団内外に大きな衝撃を与え、全国各地で抗議集会が行なわれた。いづとみづでは一〇月四日、綾部商工会議所大ホールで「出口栄二追放抗議 綾部市民集会」を開き、栄二の処分の撤廃、総長ならびに総局の総退陣、審査院規定の撤廃と審査院長・審事・審議委員全員の辞職を要求する決議を行なった。

一二月八日、四六年前の大本事件勃発のこの日午前、栄二は京都地裁に宗教法人「大本」と森代表役員ら五人の役員を相手どり、地位確認と新聞紙上などに謝罪広告の掲載を求める訴えをおこした。第三次事件で大本の紛争が裁判に持ち出されたのはこれが最初である。午後、栄二派の人たちが京都に結集して、「出口栄二を守る会」の発会式を開く。教団は、いづとみづのほかに、もう一つの反執行部団体を生みだした。翠九日の大本総務会では「こ れで四代直美の資任はまぬがれない」と、公然と直美追放を謀議したといわれる。

栄二追放をはたした審査院は今度はいづとみづに狙いをしぼる。一二月四日付で私と出口昭弘、坂田三郎に対し、「いづとみづ誌の発行配布、その他の会活動によって、教団の活動ならびに幹部を誹誘中傷し、その名誉を傷つけ、教主の尊厳をいちじるしく毅損した」として審査する旨の文書を送付した。いづとみづの運動を反教団活動と決めつけ、一二月一二日に出頭を命じ、口頭か文書による弁明を求めたもの。私たち三人は連名で次の回答を送る。「…一〇月四日の出口栄二氏追放抗議綾部市民集会における出口和明の基調講演において、いづとみづの立場で大本審査院規定を否定したことは、すでにご承知の通りであります。教団にとって重要なかかわりをもつ同規定が、総代会にもはかられず、総務会の議決のみで施行されたことはご信徒を無視するものであります。したがって同規定により設置された審議委員会そのものが非合法な存在であり、同規定による出頭要請に対して応ずる必要を本会は認めることができません。またこのことは決して反教団的行為とは考えていないことを付言しておきます。なおわれわれに対する大本審査院の見解は一方的に執行部側に立つものであり、まったく不当なものでありますから、昭和五七年一月末日までに、われわれは弁明するのではなく、書面をもって反論いたします」

さらに大本審査院・審事・審議委員諸氏と「反教団とはなにか」「教主の尊厳とはなにか」などの本質的問題について、公開討論をもって審議院との見解の相違を内外に明らかにしたいと逆提案し教団と全面対決の構えを示したが、審査院は「釈明の権利を放棄したものと認める」「聞く耳もたぬ」態度で拒否、重ねて「公開討論を」とくいさがるが返事はなかった。

五七年一月末、私たちは連名で長文の反論を審査院に送付、一五項目の質問を提出した。審査院は資問にはまったく答えず、二月六日付で「本院は二月四日審議委員会をひらいて検討の結果、貴殿らの反教団活動に対する本院の見解に変更を及ぼすものはないとの結論に達しました」と回答にならぬ怪答をする。

 

京太郎解任、宇佐美総長の出現

五七年『苑誌』新年号の教主「年頭の辞」。

「…旧年中は、煩わしい事柄がいつまでも尾をひきまして、そのうえ重大人事の発表から信徒の方々へご心配をおかけいたしましたことを、申し訳なくおもいます。そうした、一連事の余波とでもいえる動きの中で、『教団の乗っ取り』とか『教主を誑かす』といった虚言がまことしやかに流されましたが、そのような他愛もない中傷も、新春の晴れやかな気持ちの中で潔めていただけますよう念じています。:私のことにしましでも、三歳の童女ならいざ知らず、教団の重要なことで人の口車に乗せられる齢でもありません。それに、私も皆さまと同じように、神さまから水晶ミタマをいただいていて、私なりに不断に磨きもし、大切に育ててきたつもりで、雪白(せっぱく)の性も、同様に変わりはないと思っています。したがって直霊のもつ直観性は、同じように備わっているはずです。…かつて法難の日に踏み越えてきた険しさをおもえば、戦後の世代の影響とでもいえる、聖地の周辺や一、二の地方の人々の、総局を批判しての造反もどうということもありませんが、信徒の方々にはいましばらく自重して、静観していてくださることを望みます」

教団の重要なことで人の口車に乗せられない教主であってほしいと、どれだけ願ってきたことか。それが「聖地の周辺や一、ニの地方の人々」のどうということもない造反という認識とは。二月三日の開教九〇年節分大祭の教主挨拶でも、またまた参拝者を驚かせた。

「さて、わずかの人の思い違いからおきてしまいました今日の教団の不幸な現実のために、これまで教団のもっとも重い立場にあった方々には、日本古来の良習にしたがってこ のたび辞任されることになりました。…とりわけ、ものごとの真・偽について、どちらが本当か、嘘かというところをよく見極めてくださって、およずれの曲言に惑わされることのないようにして、しっかりとした信仰を歩まれますことを、切にお願いいたします。なおこのたび斎司家・斎司の制度を撤廃してもらうことにいたしましたことを、お知らせしておきます。終りになりましたが、立春とともに、総長、本部長の後任として、総代の宇佐美龍堂氏にご苦労をお願いいたしたいと存じます」

権勢を誇った京太郎体制の崩壊である。それには左のような事情があった。五六年の一二月三日、出口虎雄、山本荻江ら内事グループは直日とかたらい、宇佐美を後継首班に選んだ。京太郎体制ではいづとみづや守る会を追放できないというわけだ。数日後、宇佐美は内事室グループとともに直日に呼ばれ、後継首班を承諾する。二七日、宇佐美は勤務先の株式会社互恵会に辞表を出している。三O日、京太郎は直日に呼ばれ辞任を申し渡される。これまで京太郎に極秘にことが運ばれていたのだ。京太郎は「奉仕をやめるとだだをこね、直日に「反逆か」とたしなめられたという。五七年に入って森本部長の解任つづいて総局の総辞職を決定。節分大祭前日の総代会では教主から新人事が諮問され、全員一致でこれに同意する。宇佐美は代表役員であるとともに総長兼本部長という絶対的権限が与えられる。しかも六人の責任役員のうち、矢野照雄、馬瀬洋は地方の信徒で、宇佐美とともに京太郎の私設秘密グループ 更生会」の有力メンバーである。宇佐美龍堂とはいかなる人物か、その経歴はよく分からない。戦時中、共産党員として検挙されたがただちに転向、戦後は公安調査局とつながりをもち左翼右翼の情報収集をはかっていたともいわれる。昭和二八年、京都で月刊誌『現代人』を創刊、発行人になる。その『現代人』の二九年七月号から半年以上にわたって大本弾圧の責任者・元京都府特高課長 杭迫軍二(ペンネーム亀谷和一郎〉に執筆させ、大本攻撃のキャンペーンをした人物である。連載四、五回の末尾には「本稿は第一回以下、その編集文責は当編集部にあることを付記します」とことわり書きを入れており、宇佐美の大本つぶしの意図がはっきり感ぜられる。ところが昭和三〇年になって、日向や出口虎雄ら内事グループが現代人教会をしばしば訪問しており、つながりを深めている。『苑誌』五一年九月号のグラビアに一枚の写真が掲載されている。天恩郷の泰安居で撮ったもので、中央に栄二解任を迫った国会議員千葉三郎と京太郎が並び、両側の虎雄と森本部長、背後に大阪本苑長と宇佐美が並んでおり、彼らの関係がよく示されている。信徒にとっては無名に近く教団にまったく貢献のない宇佐美が直日の命でとつぜん最高権力の座に天下るや、四代直美の追放といづとみづ系奉仕者のクビ切り内閣を組むとは異様であった。しかも総代会では誰はばむ者もなく、満場一致で可決されたのだ。宇佐美の処置は早かった。二月二五日付で私、出口昭弘、坂田三郎に対し宣伝使解任、また本部奉仕の坂田を懲戒免職する。いかなる行為がいかなる規則に該当したのかまったく明らかにされていない。改めて解任の理由をただすと「第一三三条第三号に該当する」と回答してきた。

第一三三条 左の各号の一に該当する者は前条の戒自に照し、その軽重に応じ適正に処分する。

一 本教の祭神・聖典等に対し、敢えて不敬・不遜の言動をなした者

二 教義に背いて敢えて異説を流布した者

三 教団内の秩序を紊し、人心を惑し又は綱紀を乱した者

四 その他、懲戒すべき行為ありと認めた者

さすがに彼らは第一号、二号に該当するとはいえなかった。開祖出口直や聖師王仁三郎を過去の人とし、『神論』や『物語』を過去の教典とし、教義に背いてあえて異説を流布した者は執行部の人たち自身である。私たちをその号で罰せられないのは、私たちの主張が正しいことの何よりの証拠である。では私たちは第三号に該当する行為をなしたか。否、異説を流して人心をまどわしたのは執行部であり、私たちはそれを正そうとしたに過ぎ、ないのだ。

教則三四条には「宣伝使とは、大本信徒のうち、信仰篤く、徳行高く、信徒の範になるものであって、教えを宣べ伝える使命を荷負うものをいう」とあり、教主が任命する。

三六条には「宣伝使は、特別の事情のある場合を除き永久にその職にあるものとする」と規定される。教団で出した『宣伝使のこころえ』には「宣伝使は単なる役職名ではありません。役職名は時に解かれたり、あるいは変更されたりしますが、宣伝使は聖職なるがため、特別の汚職、罪悪のないかぎり解任されることはありません」とあり、また同書の旧版には「宣伝使の聖職を命ぜられた者は、現界はもちろん霊界においても、永遠に聖職にあるものであります。従って瑞霊のご守護はとくにあつく、任命をうけた時より自己の使命が永遠に決定づけられるものです」とある。大本信徒にとって、宣伝使解任は神への反逆者と熔印されたにひとしい。

四月一日付「地方教会及び地方機関役員改選について」の通達では、被推薦者の条件として「①宣伝使であること。②いづとみづの会及び出口栄二を守る会等、反教主・反教団的な運動者、共鳴者でないこと」の二点を条件とした。あえて宣伝使であることを条件に加えたのは、反教主・反教団的と認める信徒からまず宣伝使の資格を剥奪し、地方を骨抜きにしておく意図である。はたして一五日、植田英世山口本苑長、川崎勝美東京主会長、村松銀蔵静岡主会長(以上いづとみづ)、高木平斎島根苑長、足立裕三丹主会長〈以上守る会〉の宣伝使を解任。

四月九日、坂田・昭弘・私は宇佐美龍堂総長兼本部長を相手どり、地位確認と新聞紙上などに謝罪広告の掲載を求める訴えを京都地裁におこした。

五月一七日付で執行部はいづとみづ会員二一名に対して教団の離脱勧告を強く求め、もしいづとみづの会からも教団からも離脱しない場合は今後大本信徒として遇しないと脅迫、各地方機関長にも通知した。いうことをきかぬから教団を離脱せよとは、憲法による信教の自由を無視したまったくの暴挙といわねばならない。

 

出口直美の教主継承取消し

五七年五月五日のみろく大祭の教主挨拶はのべる。「…:教団の中も、これまでにない時節にさしかかっていると思わなければなりません。過去の二度にわたる弾圧には内のものが団結して事に当たり、この大本を護持してきた歴史をもっています。このたびは私の身内の中から争いをおこし、教団の順序を無視し、信者さん方のごめいわくも顧みず、私の任じた役員を告訴するという騒ぎをおこしています。それについて当人たちの言い分はありましょうが、信仰者として省みるべきは省み、堪え難きにも堪えて、教えの道のお世話になっているものは願序を立てて、み教えによって解決できなかったものでしょうか。私と

しましては、公判の始まるまでに、なんとかして告訴を取り下げてくれ、真情をうち明けてくるよう、ひたすら願ってきましたが。

この道を継いで満三〇年の日に、その願いも空しくなり、それにともなって、久しく胸中に温めてきたものまで遠く去ってゆくのは断腸の思いでございます。ここ一、二年、この教団に、およずれのまがごと(妖言)というべきが横行しているかの感がございます。けれども、そうしたことごと(言事)には耳目を貸されずに、ただ、真っ直ぐに神さまの方へ向かって、一筋に真の信仰を歩んでくださいますように希います。…」

五月二六日、大本総代会が聖地以外で初めて開かれる。直日が大阪市立大学付属病院に入院中であったため、病院に近い都ホテルが選ばれたもの。大祭であれ長年代理ですませてきた教主が総代会に臨席するのは二度目、五五年七月の総代会に臨席して「いづとみづは神業を妨害するもの」とのアピールを採択し強引に宮垣分苑をつくった前例から、い、ざとなると教主の権威をかり、しかも責任を教主におしかぶせる常套手段が予測される。『苑誌』発表の写真をみると、いたいたしい車椅子の直日に宇佐美が右側からマイクをさしだし、左側に立った山本秘書が見おろしている。直日は弱々しい声で「まことに突然でございますが、私のあとを継ぐことになっておりました直美…。いろいろ考えました末に、今度、四代継承者の資格を取り消すことにいたしましたので、よろしゅうご了承ください

ますよう、お願いいたします。本当におそれいりました。よろしくどうぞ」とそれだけのべて退場。後は総局の思いのままだ。「教主継承規範一部改正の件」が全会一致で提案可決される。教主継承諮問委員として、宇佐美龍堂総長、嵯峨逸平総代会議長、森清秀常任参議、井上鑑昭参与、出口虎雄内事室長、小川彰審査院長、そして教主の特別指名として東尾如衣(ゆきえ)の七人が発表される。諮問事項は出口直美の継承者としての決定取消しと三諸聖子を継承者に決定する件の二点である。

三諸聖子は直日の三女、昭和一〇年に生まれ、長じて三諸斎(いつき)(本名・長貞連)に嫁ぎ、花明山植物園の園長をしていた。委員会は諮問通りスピード決定。八七歳の東尾如衣はなんのことやら意味ののみこめないうちに判を押させられたと後に語っている。総代会は午前九時半に始まり一一時に閉会する。教団の歴史をくつがえすほどの重大問題が休憩二回を含めてなんの抵抗もなく一時間半で終了、いかに御用総代会化していたか明瞭である。

この決定の信徒へあたえる衝撃は大きかった。いづとみづが道統の危機を叫んで立ち上がったときは、直日の「ありもしないこと、おこりそうもないことで危機感を煽りたて」という言葉を大半が信じて本気にしなかった。まさかそれが現実になるとは。

教団は「大本の全信徒へ」と題するパンフを配布する。直日が病院で宇佐美に語った言葉と総代会の直前、ホテルの別室で嵯峨総代会議長と田中副議長に話した言葉である。

「…直美はね。私に『お母さん、何も知らん、人にだまされてばかりいる』と思っているらしいです。どうしてそんなことを考えるのですかね。誰かの目と耳になっているのです。直美本来のもって生まれた目と耳ではありません。私に反発してくれるようだったら旅もあるんです。私にはあたらず、さわらずの態度でして。あれは一家の主婦としてはよろしいのですが、大本教主には不適格と今度思いまして。あとのことを思ったら私は死ねません。自分一代だけならよろしいのですが、あとに続かさなならんのに。これでは無茶苦茶になってしまいます。ですから今度は、直美にやめてもらおうと思いまして、総務さんや総代さんに、お願いするわけです。よろしゅう、どうぞ。

嵯織さんが『なんとか告訴を取り下げてもらうよう思いましたが私らの力も及びませんで』と言ってくださいましたが、そんなことは親でさえ手におえません。どうにもならないことです。私などのれんに力押しです。ちっとも私にさからいませんし、子として何も不満はありませんが、ただの一家の主婦の直美ではなく四代を継がんならん入ですから、これではちょっと困るんです。それに今の補の人がいる限りは、直美は駄目です。

…父も母も直美をよつぎにするつもりでおりましたが、このまま放っておいては、私のとこは無茶苦茶になりますよ。私が生きとる間は、どうにかこうにか、がたがたでもこうしておれますが、死んでしもたらすっかり変わりますよ。私も、私一代だけのことを考えて、おれば。栄二を直美の亭主に迎えたのですし、よそから来た子です。今どきになってかわいそうですが、こんな人とは思ってないし、勉強しときなさいよといった勉強が間違っているし、時々、行ってみればよかったのにと…私にも責任があると思いますが。

私も普通のおばあちゃんだったら栄二たちに負けてやりますが、そうはゆかんのです。それはね、今まで大本のためにずーっと尽くしてこられた信者さん方に対しても申し訳ないことですし、神さまには申すまでもないことです。

これはね、ずーっと考えておりましたが、どうしても駄目やと今度はっきりわかったのです。それでも直美は大本に生まれているのやから、大本はどんなところかくらい、教えなくてもわかることですから、私らでも教えてもらっていませんが、何となく肌でどういうとこかということを知っています。直美にもわからぬはずはないと思って、これも私の怠慢だったのでしょうが、安心しておりましたけれども…。ですから、安きにつこうと思えば知らん顔しとったらよろしいが、私も先が長くないし、そんな訳にはいきません。ですからどうぞ皆さんよろしゅうお願いいたします。

田中さんは、直美がダメというなれば後のことは?と心配してくださいましたが、じっと見てますけど、私は聖子しかないと思っております。聖子とはだいぶ一諸に暮しました。この頃も一緒ですが、聖子は離れていても大体において、私と同じことを考えております。まあ言うたら、植物に対する愛好の仕方でも…。本当に神さまのお道にかなっていると思います。無茶苦茶にむさぼって、珍しい品種を探して誇りにするというような気持もありませんし、何一つ粗末にしませんし。あんな子ですが、黙ってじーっと見ておりますと、小学校時代からですよ。ご神苑に昼の外灯がついていても、もったいないと言って消しますしね。水一滴でも大事にします。それだけでも、お示しにかなうと思います。

…ですから聖子ですね。聖子を世継にと考えてはいなかったんですが、行ないを見ると、あの子が一番の適格者ゃなあと思います。直美は今、家庭の主婦だけですわ。自分の立場を忘れているんですなあ。忘れているだけならいいんですよ。またわかる時がきますが、もう駄自です。

こんどの裁判ですが、こんなこと大本でしていては恥ずかしいことですし、ですけど一々、子供に言う必要はないと思っておったんです。栄二にはいくたりもの方がでかけていって『裁判はいかん』『やめなさい』というても聞き入れません。近くの人から開きますと、『直美さんも時々言っておられますよ』ということですが、笑い捨てて聞こうともせんそうです。

前々から栄二は笑い戦術がありますよ。いづとみづのことで私も笑いとばされました。栄二は顔が童顔ですからついだまされますけど、あの笑顔も戦術ゃないでしょうか。それで、三月三一日の公判は都合でやめるかと思えば、やめませんでした。もう『これはあかん』と、私はその時にはっきりと思いました。その前からも思ってましたが。

とにかく直美はもう望みはありませんわ。栄二がついている限りはダメですわ。あの人はわからん人じゃないんです。今では家の中だけでものを見てますからなあ。…そこへゆくと、聖子は見ています。聖子は憎らしいことも私に言います。憎らしい痛烈な批判をします。その時は腹が立つから怒りますけど、後から本当やなあと思うことはしょっちゅうです。私のところの子の中では、ほかには聖子しかありません。やっぱり、女が世継となっておりますから、これはどうにもなりません。神さまからのきまりで。そしたら聖子しかおりませんわ。聖子なら大丈夫やと思っております。教えを踏み違えることはないと思っております。聖子は『行きすぎだ』と言えば、わからん人じゃありません。一方は聞き耳がないですわ。目も耳も口も誰かのものになってしまっていますからね。今となってこんなことを言いいますが、これは聖師さまでも「しかたがないなあ』と言われることは決まっています。…」

直日の話の内容は、一般の家ならともかく神定と信じられる大本の四代をかえる理由としてはお粗末すぎる。「目も耳も誰かのものになってしまっている」のは、このパンフの内容といっていい。もし教主を思うなら、こんなものはそっと隠しておくべきことだ。四代直美追放の責任を教主一人におっかぶせ、満天下に教主の恥をさらす。当時の『いづとみづ』誌の「反響集」から拾ってみよう。

「…それは教嗣を直美さまから聖子さまに変えるという内容のものです。一滴の水を大事にしたとか、しなかったとか、まことしやかに書いてありますけれど、そんなことは信仰しているものには日常茶飯事の、あたり前のことであります。要は魂の問題で、『聖師さまでも仕方がないなあと言われることは決まっています』とは何事でしょうか。聖師さまは何といわれるか、それは霊界物語のなかで、現世にいますごとく、私たちに語りかけておられます。教主さまは霊界物語を拝読されていられるのでしょうか。…」綾部市一婦人

「一枚の写真が異様な雰囲気をこんなにも正直に伝えるものかという驚きをもって、こ のパンフレット冒頭の写真を見た。小太りの生臭坊主のような男が老教主にマイクをつきつけ、某国中央情報部員を思わせるような男がうしろにつっ立って上から見おろしている。仕掛人の一人と思われる和服の男が、真正面の列から教主を見すえている。開祖、聖師、二代教主への反逆を決定する麗史的場面だ」金沢、T-H

「このパンフレットを読んでみると『裁判にかけたのがいかん』ということらしいが、あわてて審査院規定を作り、怪しげな審事や審議委員を住命して、栄二氏処分のための魔女裁判を強行させたのはいったい誰やったかいな。裁判のはしりをやらせたんは誰や! 『責任者は出てこい』と一一言いたい!」大阪、人生香炉

「直美さんが家庭の主婦のようであることがいけませんかねえ? 家庭の主婦、いいじゃないですか。すばらしいことですよ。夫の身のまわりの世話もしない生神さま、主婦としての苦労もわからない生神さまになってほしくないですわね。開祖さまにしても、その立派さは、まず妻として、母として、主婦として立派だったことにありますよ。…今のままの直美さま、すばらしい方です。さすがに神さまが四代教主として準備されていた方だと思っていますよ」京都、H-N

「ご夫君栄二氏と仲が良く、その影響を受けているのを教主継承失格者の大きな理由にされてはかないませんね。夫婦が三O年、四O年と仲良く生活しておれば、互いに影響しあい、霊的に一人のようになってあたり前ではないでしょうかね。だからこそ天国では夫婦を一人と勘定すると教えられているのですよ。…」長野、0K

直美が四代を継ぐということは、三代直日の口から幾度となく言明されていることである。また五五年七月には、いづとみづの「道統の危機」の叫びに対して『大本における教主継承の権威』と題するパンフを全国に配布した。

「…大本の道統に不安をかもすような言葉を口にするものも、それに迷わされるのも、ともに大本道統の権威を知らぬからであります。かりに野望をもって狙ってみても、神さまがお許しになるはずがありません。それさえ分らないようでは、かなしいかな、大本の信仰とは申されません。…なお、教主さまは『直美にあとを継ぐように』とはっきり申されています。教嗣は直美さまと定められました厳然としたみ言葉を、確かにいただき、現在の教主さま、教主補さまを中心に、現在のご神業奉仕に、こころを一つにして邁進さしていただきたく…」大半の信徒はこの言葉を信じ、いづとみづの警告を中傷として非難してきたのだ。だが二年もたたぬまにその言明を反古にし、教主の話だけでなに一つ釈明もない。

直美にはなんの欠点もないが、夫の栄二が悪いから教主継承をはずすという。では聖子の夫 斎(いつき)はどうか。大本梅松塾の塾長として昇教学をおし進め、有為の青年に間違った信仰をふきこんだ張本人のくせに、何一つ責任をとらぬ日出麿生神論のかたくなな信奉者であり、抱擁力どころか信徒の人望もほとんどない。では聖子本人はその資格があるのか。大本教法には「教主は開祖の血統をうけ、出口の姓を名乗る女性でなければならない」と明記されている。聖子はいったん他家の姓を名乗り、しかも子がなく、信徒の娘を養女にもらっている。教団みずからが大本教法を無視したのだ。実は一〇年も前から、京太郎派の人たちによって、四代教主は聖子とひそかに語られていた。つまり聖子の次の五代は京太郎の長女に継がれるというのだ。

道統の順位からいけば、直美の長女の直子が継ぐべきである。他家の姓でもよいなら、直日の二女の広瀬麻子がいる。人間的にも立派だし、二人の娘もいる。教主ならびに総代会は、一番四代にふさわしくない人を選んだ。子がないのはまさに京太郎派のもくろみの達成につながる。総代会の決定は五月二八日付各紙で全国に報道される。

いづとみづはこの非常事態に対処するため「栄二を守る会」に呼びかけ、五月三O日綾部市民センターにおいて「大本の道統を守る緊急全国信徒大会」を開催した。緊急の呼びかけにもかかわらず、綾部市民はじめ全国各地から約千名が集合、「聖師、二代澄の意思にそむく教主継承者の変更を認められない」旨の決議を採択した。

直美も出席し、「わたくしは聖師さまから与えられました道をすすんでまいります。どうぞ、みなさまもごいっしょに大本をお守りいただきますよう、お願いいたします」とにこやかに挨拶した。

六月三日、直美は「…教団の心なき人のたくらみにより、昨年栄二の役職をいわれもなく解任し、今また私の道統の継承を妨害することは、み教えを曲げ、お仕組を妨害し、大本の神の聖団をなきものにしようとする動きによるものと思われます。お筆先をはじめ聖師さま、二代さまによりすでに早くからお示しいただいていた、あり得べからざる大変なことがついに出態したものと思います。

いずれにいたしましでも、神律にふれることで、許されるととではないと存じます。私は何としましても、聖師さま、二代さまから与えられましたお道を歩ませていただきます。…」と全国信徒に書信を発し、教団との全面対決の覚悟を示した。やがて「出口栄二を守る会」は「出口直美さまを守る会」に改める。

この頃「更生会」が活発に動き出した。更生会初代会長は宇佐美龍堂、京太郎の支援グループとして四八年どろ発足、戦いの長期化にともなって月刊『更生会報』を発行して全国信徒に配布、教団の代弁紙として反執行部団体の誹誘中傷とデマ情報を流し信徒を迷わした。直日みずからが婦人会役員に更生会への入会をすすめたり、本部役員が戸別に勧誘に回っているという噂も流れた。こうして大本の中にいづとみづの会、出口直美さまを守る会、更生会の三つの信徒組織ができるのである。

 

三宣伝使の地位確認等請求事件の公判始まる

六月三〇日、坂田三郎、出口昭弘、和明の三宣伝使地位確認等請求事件の初公判が京都地方裁判所一五号法廷で行なわれた。かつて王仁三郎もこの同じ法廷に立ち、治安維持法をふりかざして大本をつぶそうとする権力と戦ったことを思えば、いま、内から大本をむしばむ黒い動きと対決するのは、感無量の思いがした。冒頭に、告訴にいたらねばならなかった私の信条をのべた。

「…教団『大本』は開祖出口直、聖師出口王仁三郎を二大教祖と仰ぎ、その教えを守り、神と人と他の命が勇んで暮らすみろくの世の建設を目ざす信仰団体であります。にもかかわらず、権力を握った一部の人たちの野望により、教団の生命ともいうべき教えが次第にゆがめられ、その換骨奪胎化が意図的にはかられてきました。私たちは教団の在り方に危慎の念を抱き、本来の大本の姿に一日も早く立ち返ることを神に祈りつつ、ひたすら心の痛みに耐えてきたのです。

教団の将来を思う時、真剣に悩み、かつ自分たちの力不足を嘆きました。けれど教団の権力機構の中で執行部の不正を正そうとすれば、迫害は目にみえています。特に奉仕者の身で、妻や子らを抱えて立ちあがるためには、非常な勇気と覚悟が必要でした。そして私たちは、現界的な苦難を甘受しようとも、死してのち開祖、聖師に復り言できる栄誉を選んだのです。

昭和五五年春、いづとみづの会を設立した私たちは三つの響いを立てました。『①大本の教えを守る。②大本の道統を守る。③大本の聖地を守る』の三つの誓いをかかげてこの二年余、私たちはすべてを投げうって戦ってきました。それに対して教団執行部は『教団とは何か』との私たちの問いかけをまったく黙殺し、本年三月、反教団の理由で、坂田三郎、出口和明、出口昭弘の宣伝使剥奪と坂田三郎の懲戒処分を強行したのです。三つの誓いによって教団を生命がけで護持しようとする私たちが、なぜ反教団なのでしょうか。教えをゆがめ、道統を侵し、聖地の私物化をもくろむ出口京太郎、森清秀氏らの前執行部、そしてその路線を継ぐ宇佐美龍堂氏ら現執行部の人たちこそ、反教団分子そのものなのであります。

教えとは、教団を根本において成り立たせているものであり、いわば神との契約であります。私たちはその契約を信じ、ひたすら大本信仰に励んできました。それが一部の人たちに恣意的にねじ曲げられ、大本が大本もどきに変質してしまったのです。教団内部の実状をさらけだして法の裁きを仰ぐことはもとより信仰者としての私たちの本意ではありませんが、教団執行部の人たちは教えのレベルでは通じない相手であり、ついに提訴に踏みきらざるをえなくなったのです。

原告三人は今回の処分により生活の基盤を根底より揺るがされましたが、このことはいづとみづの会結成の時から覚悟の上であります。けれど許せないのは、宣伝使剥奪の処分です。

私たちは一人でも多くの人たちに大本の教えを宣べ伝えることこそ神から授けられた使命と信じ、生きがいとしてきました。それが一片の辞令によって、その資格なしと熔印をおされたのです。原告として名を連ねているのは私たち三人に過ぎませんが、私たちのまわりを見でください。真に大本を愛し、大本の原点回帰を願うがゆえに教団から手ひどい差別をうけ、離脱勧告をつきつけられた奉仕者たち、またいづとみづの会を支援する誠一筋の多くの信者たち…そのせつなる思いを代弁して、私たちはこの法廷に立つのです。

裁判長殿、この事件を、どうか出口家の内紛とか派閥争いとかの観点からとらえないでいただきたいのです。私たちは大本の宗教改革をめざしています。裁判の過程を通じて教団の腐敗の構造を明らかにしていくことが、真に本来の大本に立ち返る道につながるものと信じています。どうぞ厳正なる審判をお願いいたします。教団のあらゆる役職を奪われ、教団からの離脱勧告をうけている今、私は祖父王仁三郎の『神に離れて神につき、道に離れて道守る』の言葉がひとしを胸にしみいるのを感じます。…」

さらにいづとみづ関係者に「教団からの離脱勧告」を送った執行部は、一一月一六日付宇佐美総長兼本部長名で反執行部とみられる八三名に第二次離脱勧告を送り、勧告に応じない場合は氏名を公表し「大本信徒また宣伝使として遇しかねる」七項目の具体的措置を知らせてきた。

    苑・支部・会合所をふくむ大本諸機関の、いっさいの役職をお断りする。②諸機関の主催する祭典・集会等の案内をしない。③すべての機関の大祭・月次祭等の玉串奉奠はしていただかない。④当該者の冠婚葬祭のお世話はしない。本部からの慶祝並びに弔意は遠慮し、宣霊合紀はしない。⑤更生奉仕金等のすべての献金及び宣伝使会費等は五八年度からは受理しない。⑥愛善苑誌は贈呈しない。⑦書籍出版物、神具等購入のあっせんはしない。この七項目はあきらかに人権を侵害するものだ。とくに冠婚葬祭まで差別するという発想は、いっぱん社会では封建社会の名残りとしてすでに禁止されている村八分の発想と同根であり、基本的人権はもとより霊魂までも差別する非人間的暴挙といわねばならない。後にこれでも効き目がないとして「⑧特に集会、会合、行事等の出席はおことわりする⑨祖霊年祭、慰霊祭の通知をしない」の二項目をつけ加える。

この秋、婦人会問題が焦点になる。一一月四日行なわれた大本婦人会全国連合会長会議の冒頭で、会長の出口直美が「…このたび教主さまより婦人会長を辞めるようにとのお言葉がありましたことをご報告いたします」と辞任の挨拶をした。あきらかに強権発動による解任である。そして執行部は一一月八日緊急総代会を招集、教則の一部を改正し、大本婦人会を解消し大本婦人部を設置することを提案、全会一致で承認される。出口澄の指示によって設立され、三三年間、かげの力として教団を支えてきた婦人会はつぶされて、教団機構の中にくみこまれたのである。

婦人会は教団とは別組織であり、執行部の意のままにならぬうっとうしい存在であった。あらたに組織された婦人部は教主より「直心会」と命名され、執行部一辺倒の御用機関となる。

一一月一七日、三諸聖子は戸籍名を出口に改姓する。それにつれて、夫の斎も出口になる。いつでも四代になる準備完了というわけだ。

 

教団に帰っておいで下さい

五八年二月、大本審査院は奉仕者の徳重高嶺、梅園浩、窪田英治、山川日出雄に査問状をだす。徳重は一九歳から八〇歳の今日まで二度の弾圧にも耐えぬいて奉仕生活を続けた大本元老で、「守る会」の幹部。梅園浩と窪田英治は愛善苑発足当初からの大本育ちの奉仕者、山川は父母とも二代にわたっての奉仕者で、梅松塾第一期生だ。いずれも『物語』に学び、教団の変質をいたむあまりいづとみづ発足に参加、執行部のあらゆるいやがらせにも屈せず、現在もその信仰的信念を貫いている人たちだ。査問の主たる内容は反教団活動に参加したということ。彼らはそれぞれ自己の信念を書面で回答する。

七月、出口直美、栄二夫妻に住居である要(かなめ)荘、掬水荘〈棟つづきで綾部梅松苑内にある〉からの立ちのきを要求してきた。「守る会」は反対、いづとみづも全国運営委員会を開き、即時撤回を求めて声明書を出す。

この年の二月三日は、教嗣出口聖子としての初めての節分大祭である。教主名代として白衣を着しみろく殿で神に祈りを捧げているはずの聖子が、節分大祓い行事が始まって間もなく苑内のうどん売店に姿を現わした。本部祭員はもとより、全国各地から馳せ参じた地方祭員や瀬織津姫奉仕の婦人たちが前日より水分を減じ、一人として座をはずすことなく夜を徹して大政い行事に奉仕している最中に、うどんを食い、土産物店で買い物をしている。しかも教主名代として「とりわけ、お世話になりましたお人型につきましては、斎主、祭員、それにたずさわるすべてのものの心を一つにして、敬けんな懸命の祈りをささげたいと存じます」と教主挨拶を代読したばかりの御本人がである。

執行部は一一月一O日付で、反執行部活動者二〇五人に第三次離脱勧告を送る。

一二月も半ばを過ぎた頃、一二五〇人の信徒は教団本部から思いもかけぬ書状を受けとって面くらった。出口直日の「教団に帰っておいで下さい」の文書と宇佐美総長からの勧告である。

「…さて、さきごろから私の身内から起こりましたことで大変、ご心配をおかけしており、申し訳なく存じます。それにつきまして、いろいろな取り違いの言論が横行しているようでございます。貴方さまには、おそらくそれらをそのまま受け取って同調されたのでしょう。純な方ほど疑いを持たないで惑わされておられるようで、私としましてはお気の毒でなりません。今は大切な時でございます。何卒、直霊のみたまに照らして不動の信を取り戻し、教団に帰っておいで下さい。もう一度、お考えなおしになって下さい。大神さまは必ず助けて下さいます:::

宇佐美の勧告は、「いづとみづや守る会から脱会し教団に帰ること、それでも翻意せねば大本の信徒、あるいは宣伝使として遇しかねる」という主旨で、第四次勧告と理解できる。

五九年二月号の『苑誌』に発表、第三次までの被離脱勧告者三〇九人の氏名を公表した。これに対し、第一次被離脱勧告者二一名は連名で宇佐美総長あてに所見を発した。

「…『苑誌』を手にした時のいつわらざる感想は、なんと愚かなという驚きと、我々が信仰生命を捧げた教団がここまで腐敗墜落したのかという悲しみでした。今まで教団発展のために誠心誠意を尽くしてきた純真な信徒に対して、『逆らうなら出て行け』という教団がどこの世界にあるでしょうか。『見直し聞き直し省ることを忘れたならば、直霊は曲霊になり、奇魂は狂魂と化し、善悪美醜の判別が分らなくなる』と教えられていますが、あなたがたはこの異常さにお気づきになりませんか。…『餓鬼虫けらまでも救うぞよ』と宣言された厳霊・瑞霊のみ教えによって全人類を救い上げるのが、大本の大使命ではないのですか。

あなたが今回とられた一連の措置は、まったく大本神のみ教えの否定というほかはありません。教団内で信徒に対し極端に反社会的な差別をしておきながら、どんな顔をよそおって同和問題にとり総まれているのか、本当に理解に苦しみます。あなた方は、現在の教団がいかに差別にみちみちているかという実態を内外に公表、なさったのです。そしてみろくの世建設の目的をみずから放棄して、『われよし、つよいものがち』の道を歩まれているのです。決して出してはならぬ型をこの大本に次々と出しておられる。あなたがたが霊界に行かれた時、どのように聖師にかえりごとなさるおつもりでしょう。

それにしても、氏名を公表された人たちはいちように晴れ晴れと誇らしげであることを、あなた方はご存知ですか。この名簿を見わたせば、それぞれがあなないの誠をつくして教団の発展に大きく貢献してきた人々であり、聖師のお示しどおり人の口車にも脅しにものらず、終始一貫して神のみ教えに忠実たらんとする不屈の信仰心をもった人たちばかりです。思いがけぬ名前を発見して、ああ、この人もまた私たちの仲間なのかと意を強くしています。

::昨年暮に第四次離脱勧告を一二五〇名の方に出されたとのことですが、その効果はいかがでしたか。その人たちも一日も早い公表を待ち望んでいることと思います。さらにまた当然あなたがたから勧告されてよい人たちが無視され、『なぜ認めてもらえないのか』と肩身の狭い思いをしていることを、あわせてお知らせいたします。どうぞ差別をしないであげてください。恥のかきついでに、第五次、第六次と離脱勧告を出されてはいかがですか。

…今のあなたがたは、お気の毒にも教主を裸の王さまに仕立てています。あなたがたがおろかな行為をなさるたびに目ざめる人々がふえ、教団改革運動参加への勇気をふるい立たせます。まさに瑞霊のくしびなるお働きというほかはありません。『教団に帰っておいで下さい』という教主さまの『異例のご文書』も、多くの人たちから失笑を買っています。大本から離れた覚えのない信徒にたいして、どこへ帰れとおっしゃるのですか。さらにまた、教団に帰れば『大神さまは必ず助けて下さいます』 というお言葉もいっそう不可解です。最近、教主さまは人類愛善新聞の随筆で『神さまのお気持がわたしにはわかりません』とのべられ、『神さまにたいして不足がいいたい気持です』と率直に結ばれていますね。

神さまのみ心をはかりかねておられる教主さまが、教団に帰ってくれば『大神さまが必ず助けて下さいます』などと、どうして断言できるのでしょうか。そのお言葉の裏を返せば、『帰らなければ神さまが罰を与える、村八分にするぞ』ということです。『脅迫宗教はいけない』と聖師さまはおっしゃっていますが、このさい『イソップ物語』の『北風と太陽』のお話を教訓となさったらいかがでしょう。私たちは、大本神を信じ、大本出現の意義に感じ、神の手足となって働かしていただこうと誓って入信したのです。したがって、教団を私物視するあなたがたから離脱勧告を受ける筋合いはまったくありません。

私たちは今、ためらいもなく初心をつらぬき、『勇めば勇むことがでてくるぞよ』とのお言葉のまま、勇みに勇む信仰に燃えています。大本の真のみ教えを地の上に広めつづけて行く覚悟であるととを、改めてご通知申しあげます。今からでもおそくはありません。あなたがたも、私たちとともに、大本の真のみ教えをいただかれ、一日も早く教団蘇生の神業にとりくまれますよう祈ってやみません」

五九年一二月二日、出口新衛昇天、前夜家族の団らんの時「自宅で死にたいものだね」と笑って語っていたが、翌朝、昭弘が起こしに行くと、安らかな寝姿のまま息がなかった。享年七五歳。父高橋喜又は第二次弾圧に抗した大本の弁護士であった。新衛は温厚篤実な人柄で、二代にわたり生涯を教団に捧げた。特に晩年は初めからいづとみづの運動に参加、一二年前の脳梗塞の後遺症に悩みつつも、死ぬまぎわまで活動した。私は新衛叔父の遺骸を前に、しっかりと遺志を受けつぐことを誓った。

六〇年五月一二日、本部奉仕者の三人に処分がくだる。梅園浩〈大本信徒除籍、宣伝使解任、懲戒免職)、窪田英治(宣伝使解任、懲戒免職)、山川日出雄(宣伝使解任、停職二ヶ月そのあいだ給与の二分の一減額)。この処置は、三人がそれぞれ審査院の質問に対して回答し、質問に正しく答えるための関連質問を出し、まだ回答のこない審査継続中のできごとである。また同日付で大本の元老、二度の事件の体験者である大国美都雄(宣伝使解任、参議取消し)、徳重高嶺(宣伝使解任)を処分。第二次事件で懲役刑をいいわたされた人たちで今日まで生き残っているのは、この二人だけである。

かつて『現代人』によって大本撲滅を企てた宇佐美は、ついに最後の引導を渡したのだ。懲戒免職をうけた梅園、窪田は五月二一日、折田泰宏、小山千蔭両弁護士を代理人として地位確認請求の訴えを京都地裁に提出する。

「この裁判は寝ていても勝てる」「宣伝使剥奪は教団内部の問題であり、門前ばらいをくうだろう」と豪語、宣伝していた執行部は、六一年四月現在ですでに一七回の公判を重ね、事実審理にはいるに及んで、引きのばしに躍起だ。裁判の争点は、いづとみづの会が反教主・反教団かという一点にしぼられよう。私たちは教主を愛するがゆえに、教団の改革運動に立ちあがったのだ。執行部はかつての天皇制そのままに教主を神格化することによって諮意を遂げ、不敬罪で信徒を弾圧してきた。その結果、教主を、ぼろぼろにしたのである。しかも被告席に立つと、彼らは「すべて教主の命のままにやった」と責任のことごとくを教主におしかぶせる。教主を法廷の場に立たせるつもりなのか。しかも四代直美を追放し、出口直、王仁三郎の遺志すら無視した。彼らこそ反教主であるばかりか、反大本教団なのだ。

大本の今日あるのは、前述のように、『霊界物語』の「神仏無量寿経」などによって預言されていたが、私たちはそれが現実化することを憂慮し、「大難を小難に、小難を無難に」と祈りながら、黙過できずに立ち上った。王仁三郎が入蒙のときに書きのこした『錦の土産』にも、死後のことが予言されている。

「伊都能賓(いづのめ)の御魂霊国の天人なる大八洲彦命の精霊を充たし、瑞月(王仁三郎の号)の体に来たりて口述発表したる霊界物語は世界経論上の一大神書なれば、教祖の伝達になれる神論と共に最も貴重なれば本書の拝読は如何なる妨害現はれ来るとも不撓不屈の精神を以て断行すべし。例え二代三代の言と難もこの事のみは廃すべからず。

邪神界、殊に八十八派の兇徒界の妖霊は一応尤もらしき言辞を弄し月の西山に入りたる際(王仁三郎死後)、得たり賢しと聖地へ侵入し来り先づ第一に二代三代の身魂を誑惑せんと雄猛び襲ひ来るべし。然して自己の霊系の暴露するを恐れて教祖の血統を楯に数多の信徒を魔道へ誘はんとするは火を賭()るより明白なる事実なり、注意すべし」

執行部は「いづとみづの会」から「霊界物語を押し込めようとしている」と批判されると、信徒に対して「物語を拝読するように」と一言いながら、一方で巧妙に『物語』を出版停止し信徒の手に入らなくするなど、着実にその正体をさらけだしつつある。六一年四月現在『霊界物語』八三冊中、入手できるのは一六冊にすぎない。全部なくなるのは時間の問題であろう。「如何なる妨害現はれ来るとも不撓不屈の精神を以て断行すべし」の物語拝読への遺言をふみにじり、信徒を教えから遠ざけた。

物語ぎらいの直日を楯にその身魂を誑惑し、ついに教団を大本もどきに変質させてしまったのだ。その元凶の執行部こそ反教団である。

 

大本事件の本質

第一次事件では筆先が、二次では物語が、天皇絶対の国家権力によって裁かれたともいえるが、事件の本質については、誤解説、必然説、経論説の三つがある。

【誤解説】大本神論や霊界物語、大正日日新聞の報道や昭和神聖会運動が当局の誤解によって起きた事件とする説である。しかし私はこの説をとらない。たとえば不敬の一点となった「日の光り昔もいまも変らねど大内山にかかる黒雲」の王仁三郎の歌にしても、日は変わらないのだから大正天皇を批判したのではなく、黒雲はあきらかに天皇をおおう重臣のあり方にたいしての批判だ。それを天皇への不敬と強いるには、当局の故意である。

だが、直や王仁三郎の思想の根底に現人神天皇よりはるかに高く大本神をいただく以上、当時の憲法では不敬とされても仕方がない。

【必然説】大本立教の精神である「三千世界の立替え立直し」は当時の天皇制絶対のワク内にちょこんとおさまる教えではない。しかも激しい宗教的情熱をもって手足をひろげ、大きくはみだしていたのだから、治安当局の弾圧は必然といえる。大本の本質は、権力の志向する方向ともとからあいいれないのだ。弾圧の底から光りつづけた信仰の力こそ誇っていいであろう

【経綸】すでに述べたように、第二次世界大戦と第二次大本事件の不可解なまでの一致は、それが型の予告の上になるものだけに、偶然とは考えられない。神が経綸したものとせねば理解できぬ面がある。型と認めるならば、王仁三郎はじめ多くの信者たちの血と忍耐と誠心からなる、あまりにも悲惨な型であった。事件によって教団のなかにある偏狭・閉鎖的な思想の残滓が精算されたように、選民をほこった民族主義が崩壊し、日本も敗戦をへてはじめて国際性をもった民族国家としての門戸がひらかれる。旧日本が新日本へ立替えられる経倫であったとも理解できる。

王仁三郎は小山弁護士に第二次大本事件の意義について語っている。

「今度の事件は神の経綸なのじゃ。この大本は、今度の戦争にぜんぜん関係がなかったという証拠を神がお残しくださったのじゃ。戦争の時に戦争に協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教団体では、世界平和の礎にはならん。しかし日本が戦争している時に日本の土地に生まれた者が戦争に協力せぬでは、国も社会も承知せぬ。それでは世界恒久平和という神の目的がつぶれるから、戦争に協力できぬところへお引きあげになったのが、今度の大本事件の一番大きな意義だ。これは大事なことだよ」

だが大予言者出口王仁三郎は、事件がおきるのを手をこまねいて待っていたろうか。そうは思えない。なぜならば、神のプログラムは、天の時を知った人間が神と一体になって動かねば実現できぬからだ。だからこそ王仁三郎がしかけて国家権力をゆさぶり、二度の事件をおこした節がある。

大阪控訴院における高野裁判長と王仁三郎のやり取りをみてみよう。予審調書を否認する王仁三郎を、裁判長は理屈で追及してなかなか許そうとしない。すると王仁三郎は逆に反問した。「裁判長、私の方からちょっとおたずねいたしたいのです。仏の禅宗という宗派では問答ということをやっていますが、その問答の中に『人虎孔裡に墜つ』といって、一入の人間が虎の潜んでいる穴の中へ誤って落ちこんだと仮定して、その時その落ちこんだ人はどうしたらよいかという問答があります。裁判長、あなたはどうお考えになりますか」「私は法律家で宗教家でないから、そんなことはわからぬ。お前は宗教家だからわかっているだろうが、どういうことなのかね」「それは人間より虎の方が強いから、逃げようと後を見せるとすぐ飛びかかってきてかみ殺される。刃向っていったら、向うが強いのだから、くわえてふられたらもうそれきりです。じっとしていても、そのうち虎が腹がへってくると、御馳走さまともいわずに食い殺されてしまう。どっちにしても助からないのです」「それはそうだろうな」 「ところが一つだけ生きる道がある。それは何かというと、食われてはだめだ。こちらから食わしてやらねばなりません。食われたら後には何も残らんが、自分の方から食わしてやれば、後には愛と誇りが残る。その愛と誇りを残すのが宗教家としての生きる道だ、というのが、この問答の狙いなんですよ」

大本を弾圧した日本の官憲を虎にたとえ、大本ないし王仁三郎自身を虎穴に墜ちた人にたとえて予審調書に署名捺印した事情と心境を説明している。

天理教は中山ミキを先頭に「高山」(官憲・天皇)に抵抗して天変地異による世の終末と神の支配を予言したが、上層部は官憲との妥協をはかり、明治二〇年代の反動期には天皇制の確立とその宗教利用政策に応じて大発展した。太平洋戦争の宗教統制でも教義の一部変更をして切りぬけ、今日の大教団を維持している。

宗教にとって教義は命である。大本が帝国憲法下において生きながらえるためには、三千世界の立替えを基調とする大本教義を改変する以外に道はない。しかしそれでは教団の体は残ろうが、大本の魂は抜かれてしまう。体主霊従的人造教に堕すぐらいなら、玉と砕けた方がましだ。弾圧が必至とあらば、胸を張ってこちらからぶち当たり食わしてやろう。そこに愛と誇りに満ちた魂が残れば、ひとにぎりの灰からでも大本はよみがえる。不死鳥のように立ち上がるだろう。

第一次大本事件では、王仁三郎は浅野和三郎らの大正一〇年立替え説を容認した。実はそれは大本自身の立替えであることを承知しながら。大正七年六月に発表の王仁三郎の歌に「神の国 大く正しき一〇年の正月五日は吾れ悩ましも」とある。大正一〇年旧正月五日は新暦になおせば二月一二日、まさに第一次大本事件勃発の日なのだ。それを知りつつ、あえてその時を待った。事件によって反瑞霊派はみずから去り、そのために王仁三郎は霊界物語の口述が可能になり、信徒の自を世界的に拡大することができた。

第二次大本事件では昭和神聖会が大きな要因となる。幹部たちがそろって王仁三郎に神霊会活動の抑制を進言した時「わしは大本の王仁三郎ではない。世界の王仁三郎じゃ。世界がよくなれば大本などつぶれてもかまわん。お前たちがやらねば、わし一人でもやる」としりぞけ、また澄が幹部に頼まれて忠告した時も「お澄や、お前は神さまと人とどちらのいうことを聞く?」「そら神さまですわな」「わしは神さまがやれというからやるのじゃ」といっている。直日の王仁三郎にたいする恨みも、日出麿と二人で忠告したのに聞き入れず事件をひきおこしたのが大きな原因だが、「日出麿に神の経綸がわかるか」と激怒した時点と同じことがいえよう。

 

栗のいがは内からはぜる

「松竹梅事件」と表現した王仁三郎の予言は的中する。事実、第三次事件は竹田問題を中心にして内わからおこった。この予言を開いたとき、第三次など誰が信じたろう。二度までも激しい苦難にあいながら、神は三度同じ思いをさせなさるのか。たとえ王仁三郎の言葉といえどこればかりは信じたくなかった。私もまた耳をふさいで開くまいとし、そのうち意識から離れていた。この頃になって第三次大本事件もまた、私は、王仁三郎が仕掛けたものと思わざるをえないのだ。

王仁三郎は別の表現でも、第三次を予言している。「栗のいがが内からはぜるように」と。当初はこの真の意味が理解できなかった。いまにして私たちは、第三次事件の必要性も納得できる。教団の無法に対する時、金もカもない私たちの頼りは教典しかなかった。真剣に学びはじめてこそ、一つ一つ目を開かされ、感動し、物語の底深い意味が魂にしみいってくる。今まで他人ごとに思っていたウラナイ教主高姫の言動が思いあたり気づいてみれば、反瑞霊の拠点であったウラナイ教の本部に、なんと「おほもと」とルビがふってあるではないか。しかもそこの信徒は日の見えぬ、耳の問えぬ者ばかり。なぜこれまで読み過ごしていたのだろう。

王仁三郎は小山弁護士に教えている。

「わしがお前らにご神書を読め、震界物語を拝読せよと口がすっぽくなるほどいうたにもかかわらず本欄にかざっておくだけで、誰もいっこうに読まん。それで神さまが読まぬ本なら持たしておく必要はないと、警察の手をかりてお取りあげになって焼いてしまわれた。人間というものは妙なもので、手もとにある時は決して読まん。手もとになくなると、一枚でも半頁でも恋しがって、血まなこになって読みだす。読めば初めて教えの尊さがわかってくる。どうだ、お前たちもその口じやろう」

「今度の事件で検事が大本は宗教じゃないというから、いったい宗教とはどんなものかと初めて仏典やバイブルに自を過すようになって、大本の教えと比較してみて、初めて大変な教えであったという自覚がわきました」「そうじやろう。…今度の事件でもおこらなかったら、識も教えの真価を理解しない。当局から淫祠邪教だと攻めたてられるから、淫祠邪教でない証拠をみせにゃならん。死にものぐるいで勉強せんならんように神さまから仕向けられたのじゃ。誰でもよい、一人にわかれば万人にわかる。一人にわからなかったら、永久に土に埋もれてしまうからな」

 

愛善苑時代は教団再建にいそがしく、だいいち学ぼうにも弾圧で失って物語がなかった。三代直日の代となり大本と改称してからは、教えよりも芸術が奨励された。物語が全巻刊行されたのは、よやく聖師生誕百年の四六年である。信徒たちはありがたく本欄に飾っておいても、真剣に学ぶ気運は盛りあがらない。いづとみづが始まってはじめて、物語に真剣に取り組んだといってよい。いままた物語は教団によって出版をとめ、消し去られようとしている。たしかに大本教団は竹と化し、内はカラッポとなってしまった。瑞霊の教えを学んできたものばかりを選りだしてすべて追放したから、水(瑞〉気もない。栗のいがは、いわば変質化した教団本部であろう。時期がきて内からはぜれば、いがは腐る。だが土にこぼれ落ちた栗の実は二つか三つ、そのうち新しい芽をだすのはどれか。

芽とは、教えに心の目を開いた真の宣伝使であろう。栗原彬立教大学教授は、それを「複数のすさのお」と表現する。やがてその複数のすさのおが世直しに立ち上がれば、第三次事件もまた脱皮する新しい世界の雛型となるであろう。

六〇年六月には人類愛善会は創立六〇周年記念祭典と集会を開き、会則を変更して「大本教主・教主補を総裁・副総裁に推薦することを決め、総裁の諮問により会長に大本総長兼本部長宇佐美龍堂を選出した。こうして宇佐美は完全に教団を支配下におさめた。そして『愛善新聞』は建国記念日礼賛の主張を展開する。六一年一月三〇日付で、京太郎は大本教主補出口日出麿補佐という奇妙な役織に任命される。日出農の老衰にともない、いつでも教主補になって実権をふるう準備は完了した。

教団本部は、王仁三郎襲名を狙う京太郎、大本教編出口聖子の夫出口斎、本部権力を手中にした宇佐美龍堂の三人が互いに利用し合いがら、相手をけ溶とそうと爪を磨いている。教団はいっそう管理化をすすめ、立替への使命を放棄し、教団維持にきゅうきゅうとしている。

六一年二月、教団は長生殿建設計画をうち上げた。本宮山の麓に総工費百億円、総建築面積九七三〇平方米の御殿を建てようというのだ。五月から着工、工期一五年という。節分大祭の教主挨拶で、直日はのべる。

「…長生殿のご造営は、神さまから、私が承っておりますご使命でございまして、永年心を離れないものでございました。思わぬことが起こりましたために、五年ほど遅れましたが、今、全国からご造営に対する熱気が澎湃としてわき上がり漲(みなぎ)ってまいりまして、五年のおくれはやがて取り戻せるうな気運を感じさせていただいております。

このたびのご用こそ、三千世界の立直しのご用でございまして、現界霊界を通じて、末代まで残るご用でございます。開教以来かつてない大規模なご神業でございますが、万代万国に神の世を開かせていただくために、何とぞ皆さまには格別のご尽力を頂きますよう、お願い申し上げる次第でございます」

長生殿の建設が三千世界の立直しのご用とは、どの神の指図であろう。愛善苑発足時、王仁三郎は「これからは神殿は要らぬ。魂の中に神殿を造れ。常に神と共に生き、神と共に楽しみ、神と共に働け。なにか礼拝の対象がほしいなら、小山でも造って拝んだらよい」といって、本宮山上の長生殿の十字形の礎石の上に月山不二を築いた。

それと逆向きに位置も形も違うどでかい体をつくることがなぜ神業なのか。すくなくとも今後一五年間は、信徒は御神業と信じこまされて強制的献金に骨身をげずるであろう。天理や創価学会などとは比較にもならぬわずかな信徒数から巨額の金をしぼりとる。甘い汁を吸い上げ、ほくそ笑む輩が必ず出てくる。愛する大本にそんな型をだしてほしくない。型の教えを信じる以上、今の大本の姿そのままを世に移してはならない。しかし教主絶対、見ざる聞かざる言わざる主義の本部派信徒の姿は、無気力なまま右傾化する日本がすでに写しとっている。格好の良さが中身に優先する若者たちの風潮すら、教より形、芸ごとを重んずる教団のあり方と同根だ

いづとみづの会では、王仁三郎が生きていたら今何をするかと、真剣に考えている。そして王仁三郎の魂を受け継いで、彼が目ざした愛善苑を復興したいという自覚が、会員の中に燃えあがりつつある。愛善苑を現代に取り戻すことが、腐敗した教団への批判と改革につながるからだ。愛

善苑とは、国家、民族、宗教などのあらゆる垣根をとり除き、教えにもとづいて神の御意思を心としつつ、手をつなぎあい、みろくの世の建設に進む世直し集団だ。その試みとして六一年一月と三月、王仁三郎の晩年の住居熊野館において三泊四日の「出口王仁三郎に学ぶ世直し講座」を開催した。今後も年に何回か開かれる予定だ。

また六〇年一一月、「王仁三郎を現代に問い直す会」が植田英世、折田泰宏、栗原彬、永畑道子、宮田登、村上重良、安丸良夫、丸山照雄らを発起人として発足、すでに東京、京都で二回のシンポジュウムを開き、今後も引き続き研修会が予定され、王仁三郎研究のための資料室の設置や『世直し通信』の発行も計画されている。いづとみづは「問い直す会」と手をとり合い、王仁三郎の思想をかかげて現実社会と深く切り結びたいと願っている。

第一次は不敬罪と新聞紙法違反、第二次は不敬罪と治安維持法違反で、王仁三郎は国家権力に裁かれた。第三次もまたその両者の性格をあわせ持つ。国家の体制を大本に組み入れ、裁くも裁かれも、共に教団(国家)のいがの内だ。裁くは教主(天皇)を頂点とする教団執行部(内閣)、裁かれるのは教えに殉ずるいづとみづ系宣伝使。罪名は反教主(不敬罪)、反教団(治安維持法違反〉で、争点は『いづとみづ』誌掲載記事(新聞紙法違反)である。

第一次は六年、第二次は一〇年でいちおうの終息を遂げたが、前者は大正天皇の崩御、後者は敗戦という歴史的背景の介入であり、商事件とも不敬罪は残されるという後味の悪さだ。その意味で、二度の大本事件は、完全な解決をみたとはいえぬ。第三次はすでに六年が経過する。いつ解決がつくか見通しも立たぬ。だが長びけば長びくほど、いづとみづ系信徒らは、栗の実のふとる時と、むしろその試練を甘受している。

第三次事件が起きざるをえないように仕組んで、王仁三郎は逝った。十和田湖伝説を残したのもその一つであろう。それがなければ、今の私はなかったかもしれない。神がかけた綱から逃れようもない私があるように、善悪正邪さまざまの魂の役者たちが引き寄せられ、善の仮面をかぶって踊っている。六〇年秋、『出口王仁三郎』を新評論社から発刊するにあたって、私は開き直り、十和田龍のペンネームを使用した。王仁三郎の巨大なてのひらの上で、私は善悪不二の戦いを死ぬまで演じるほかはなさそうだ。

 

 

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